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毎日のごはんを選ぶように、人と情報を選ぶ
毎日食べる「ごはん」をすごく大事にしている。
ワガママかもしれないが、「食べたい!」と思えるような飲食店がまわりになかったら無理に食べずに朝食も昼食も抜いてしまうし、「とりあえず何かお腹に入れなきゃ」と適当におにぎりや栄養食を選ぶのは何だか嫌だ。
それほど、わたしはごはんが大事だ。
「仮に人生80年とすると、1日3回、365日食べたとして、私たちの一生の食事の回数は約88,000回」と言われているとおり、食事ができる回数は限られている。
じゃあなおさら抜かずにちゃんと食べなよ、という話なのだが、どうせ食べるなら好きな人とおいしいごはんが食べたい。「クリームパンがないならチョコパンでいいや」じゃなくて、「クリームパンがないなら夜まで空腹でいいや」という考え方なのである。
わたしの祖父母は農家を営んでいて、母は栄養士の資格を持っていたこともあって、わたしにとって「ごはん」は自分の身体だけじゃなくて心をも作るものだ。
実家から送られてくる新鮮な野菜は、届いた日のうちに料理して食べれば、身体が喜ぶ感じがするし、大好きなアイスクリームやラーメンは身体には悪いかもしれないが、心はとても元気になる。
毎日食べるごはんは、そうやって選んでいる。「食べたい!」と思えるもの。身体と心が欲しているものを手に取る。
そこまでこだわりがなかったとしても、ファミレスに入ってメニューを選ぶとき、「どれにしよっかな〜」と少しは悩むんじゃないかと思う。
それが、食事ではなくて「人」や「情報」になったとき、うまく選べないのはなぜなんだろうか。
「感じ悪いなぁ」と思っても、何となく関係性を切ることができない人。
ひどく傷つけてきても、きっと変わることを信じて側に置いている人。
心を蝕むようなひどいニュース。
曖昧な相槌を打ちたくなる悪口や言葉。
嫌いな食べ物だったら「買わない」という選択肢があるのに、「人」や「情報」は、うっかり受け取って咀嚼して飲み込んでしまう。その後に鈍い腹痛が来ることもわかっているはずなのに。
「人」も「情報」も毎日のごはんと一緒なのだ。しかも、ごはんはまだ、残さずに食べることは良いが、まずい人や情報を食べても誰も得することはない。なのにどうして頑張って咀嚼しないといけないんだろう。「まずいなぁ」と涙を流しながら頬張らなきゃいけないんだろう。
選り好みしないで、いろんな人と付き合って、いろんな情報を吸収することが正しいと思っていたけど、全然そんなことないよね。
今一緒にいる人は、自分で選んだ「おいしいごはん」ですか?
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