『食わず嫌い』を食べてみたら美味しいかもよ?
なんとなく、牡蠣が苦手だった。
まず、見た目が全然おいしそうじゃない。ところどころ黒くて汚く見えるし、一種の気持ち悪さがある。
それに、牡蠣に当たった友だちが1日中苦しんでいるのを見たこともある。なぜ、そんな苦しむことになるリスクを背負ってまでこのグロテスクなものを食べなきゃいけないのか。
まったくもって理解不能である。
ところがどっこい、現在のわたしは月2ペースで生牡蠣を食べている。
「何食べたい?」と聞かれれば、迷わず「生牡蠣」と答えるし、毎回丁寧に写真を撮って記録しており、いずれは生牡蠣メディアでも立ち上げようかと思っているくらいの偏愛っぷりなのである。
しかし、きっかけは本当にどうってことはない。友だちから、「奢るから生牡蠣食べようよ」と言われて、えぇーと思いつつ、奢ってくれるなら食べてみるかぁ、と口に運んでみたのである。
そして案の定、こんなに美味しいものを食わず嫌いしていただなんて、なんて人生損をしていたんだ!!と驚愕した。
最近、それ以来の『食わず嫌い』に関する衝撃的な出来事があった。
『哲学』である。
本当に冗談抜きで1ミリも関わらない人生を送ると思っていた。
…というのも、私のまわりにはかつて哲学好きの人がチラホラおり、「メタ」とか「アウフヘーベン」とかの謎の用語を会話に混ぜてくるたびに「何を言ってるかわからないけどウゼェ」と感じていた時期があった。
私は帰国子女だから、というのはあまり言い訳にならないかもしれないが、授業などでも当たり前のように哲学用語が出てくるので、
「この、英語でも日本語でもない言葉は何なんだろう?」
とずっと思っていたし、その、「アウフヘーベン」らへんを日常的に使ってくる人たちのことを、「よくわかんない難しい言葉を使ってドヤりたいんだな」なんて思っていた。
だから、一生勉強するもんかと心に決めていた。
『哲学』が嫌いなんじゃない。『哲学用語』を使う人がなんとなく苦手だったのだ。
そんなこんなで『哲学』のことはすっかり忘れていたのだが、先日ひょんなことから仕事で『哲学』を学ばなければいけなくなった。
学ばなければいけないというか、取材をすることになった。
https://r25.jp/article/645598145076924820
正直、取材前は最高に憂鬱だった。
「あーーーーここに来て哲学かぁーーーー!マジでわからんーーーーヤバいーーーー話を聞いても興味が持てなかったらどうしようー!!」
…と頭を抱えた。ライターさんにも事前に「どうしよう」と泣きついたし、考えてもらった質問案を読んでも1ミリもわからず、完全に終わった、と思った。
それが、なぜか取材を終えたあと、「あれ?哲学ってめっちゃおもしろくない?」というマインドに切り替わっていた。
何が起きたのかは自分でもよくわからない。
何かあるとすれば、取材をした飲茶さんの話がとてもわかりやすくおもしろかったのだと思う。
しかし何より、一瞬でも「おもしろい」と思ってしまった自分にめちゃくちゃビビった。
そんなことあるー⁉︎ って。
そこから、大げさな言い方をすれば世界の見え方がちょっと変わった。
実は今まで、「17歳って哲学だよね」と言われることが多々あったのだが、それに「はぁ…?」と返すのではなく、「そうなんだよねぇ」と返せるようになった。
なぜなら、哲学のひとつの定義は「新しい価値を生み出すこと」だからである。
もちろん、哲学のことが何かよくわかったか、と言われれば全然詳しくないし、好きかと言われてもよくわからない。
ただ、嫌いではなくなったことは確かだ。
そう考えると、食わず嫌いって本当にもったいないんだな!と思った。
食わず嫌いをしているだけで、口にいれないのはもちろん、味も形も、カケラもわからないまま終わる。
ヘタすると、一生知らないまま終わる。
ただ、食わず嫌いのうちは、そのもったいなさに気付けない。だって、嫌いなんだもん。食べたことはないけど。
そんな、自分で勝手に「嫌い」と決めつけているものを、ほんのちょっとだけ疑ってほしいのだ。
「食べなくても人生困らないもん」なんて食べていないのにシャッターを閉じないでいてほしいのだ。
一口食べてみたら、意外とおいしいかもしれない。