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物理的or精神的な距離感。

北海道旅行から帰ってきて、職場にお土産を配り、
やっとnoteを更新しようとしたら、パソコンがフリーズして動かない…
そんな事もありますよね
緊急メンテナンスのおかげで、やっと通常通り動くようになりました。

数日間のブランクがありますが
実は、21日の日記には大きく×と書かれており、
翌日22日の日記には大きく←と書いてあります

察するに、数日間の日記を一気に書いたけど、
1日づつずれていると途中で気づいて、×と←を書いた…

という事は、「21日の記憶」だけ溢れてしまっているのかも?
まずは2000年2月20日へ

何も欲しがらない体が欲しい
体が欲しているのは結局1つなのに
嫌な事を忘れたい
代償として全てを捨てるから
ひどく遠いその土地へ
どうにかたどり着きたいのに

先日ホテルで眠れずに、この日の日記を読み返していたのですが
まさか北海道でこの日記を読むなんて、皮肉ですね。

自分の行動力(経済力)のなさに対するフラストレーションから
どこか遠くに行きたいと、よく書いていましたが、
現代で考えると、インターネットさえあれば済むので
今考えると、悩む必要もなかった気がします

あの頃は、ずっと家の中に居たので、淋しかったんでしょうね。
続けて 2000年1月21日へ

一緒に暮らして居ても、一緒に居る時間が多いのは友人の方だ
家族であっても、いつかバラバラになってしまう
これは一体どういう事だろう?

私の家も、両親は不仲でそれぞれ家を空ける時間が長かった事。
兄も学生でアルバイトをしていたので、
家では1人でいる時間が長かった覚えがあります。

前日の日記と同じく、他人とのコミュニケーションの時間が短くて
単純に淋しかったんだと思いますが、
ただそれだけの事を、当時は全く気づいていなかった。

思い返してみると
自分自身を俯瞰からぼーっと眺めて、まるで幽体離脱の様な感覚。
辛い気持ちを感じない無い為の、処世術だったのかも知れません。

赤の他人と違って家族との距離が一番難しい。
甘えが出てしまったり、理解しあえず、カッとなってしまったり、
意地が出て、譲りあえなくなてしまったり…

生活や人間関係が違うので、分かり合えなくて当然と言えば当然なのに
割と気づかなくて、傷つけあってしまうのでは?

なるほど、20年前にそんな事を考えていたとは、思わぬ発見がありますね。

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