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【10分で読める短編小説】くるみちゃんの猫

 隼人はやとは布団の中で寝返りを打った。

 やっと訪れた日曜日。ようやく休める。

 昨日で苦しい8連勤を乗り越えたばかりだった。隼人は中学校で英語教師をして今年で2年目になる。先週の日曜日は顧問をしているバスケ部の大事な試合があったので休めなかった。

 連勤だけじゃない。最近は仕事を辞めようかと思うほど目の回るような忙しさだった。期末試験の採点、教材研究、提出物の確認。

 提出物を期限までに生徒に提出させるのは一苦労などという言葉では言い表せなかった。隼人は担任を任されているクラスにあの手この手を使って提出させるよう試みた。保護者会の出欠を忘れるくらいならまだいい。中には修学旅行の出欠や、高校受験の推薦入試で使う書類のような大事な提出物まで平気で出さない生徒がいるのである! 全く信じられない。

 先日はその忘れ物常習犯の中でも特にひどい生徒をひとり捕まえて叱りつけ、翌日には未提出のものを全て提出するようにと言いつけて返した。しかしその生徒が翌日に携えてきたのは未提出の書類ではなく、烈火の如く怒り狂った母親であった。

 母親は2時間も学校に滞在し、隼人の生徒に対する指導がいかに問題があるかを猛烈にまくしたてたのだ。

 隼人は布団の中でもう一度寝返りを打ったが、隣の部屋からドスンという音が聞こえて目が覚めてしまった。寝直そうと布団を頭のてっぺんまで引っ張り上げたが、掃除機の音がブーンと響いてきたので寝れなくなってしまった。

「休日に寝ることもできないなんて」

 隼人はそうつぶやくと、ぼさぼさの頭で起き出した。部屋の中にムッと暑い空気がこもっていた。窓を細く開けると、初夏の気持ちの良い風が入ってきた。

 隼人は水を一杯飲むと、トイレに30分こもった。最近はどうも胃腸の調子が優れないのである。トイレから出てきてあたりを見回すと、洗われるのを待っている大量の皿が目に入った。

「せめて休日に僕の家に来てくれて、美味しい料理を作ってくれる彼女がいてくれれば、僕だってもっとやる気をだして働けると思うんだけどなあ」

隼人は大切にしているセキセイインコのピーコに話しかけた。今パートナーと言えるのは、このピーコだけだった。ちなみにピーコはオスである。
「ピ! ピッ! ゲンキダシテ!」ピーコは叫んで、新しいエサをねだった。

 ピーコに新鮮なひまわりの種をやると、皿洗いを始めた。その途端に、洗濯物が大量に溜まっていることを思い出した。何かを始めると他にしなければならないことを思い出すのである。

 隼人は蓋付きの大きな木のバスケットを持ち上げた。それを洗濯かごとして使っていた。ずっしりと重い。相当洗濯物が溜まっているようだ。

「ギャー! アブナイ! アブナイ!」 ピーコが大声で叫び声を上げた。

「うるさいピーコ、何が危ないんだよ」
 
 隼人がピーコに注意した途端、玄関をバンバン叩く音がしたので隼人は飛び上がった。恐る恐る玄関を開けると、顔がグシャグシャに濡れた2歳くらいの女の子が立っていた。

「くるみちゃん!」

隼人は仰天してくるみちゃんを見つめた。くるみちゃんは隼人が住んでいるアパートの隣の住人だ。

「にゃんにゃんがいなくなったの」くるみちゃんはしゃくり上げながら隼人に訴えた。

「何? なんだって?」

「にゃんにゃん探してぇ! にゃんにゃん!」

「にゃんにゃんって、くるみちゃんの家の、あの太ったトラ猫のことかい?」

 そういえばお隣さんは太ったかわいくないトラ猫を飼っていた。隼人の家のベランダで、敷物のように平べったくなって寝ていたのを追っ払ったことがある。隼人がシッシと追い払うと、背中を山のように盛り上げて「フーッ!」と威嚇いかくしてたっけ。

 隼人は振り向いてまだ洗い上がっていない皿と、まだ蓋も開けていないバスケットを見た。

「くるみちゃん、僕は忙しいんだ。それにね、正直今日は子どもを見たくないんだよ。ママがいるでしょ? ママと探しなよ。ね?」

くるみちゃんはえーんと泣くと、ピンク色の小さなTシャツに涙をぽたぽた垂らした。

「ママいないの! にゃんにゃんもいなくなったの!」

 くるみちゃんは足をバタバタさせて地団駄を踏むと、その場にしゃがみこんでしまった。

「ママがいないってどういうことなんだよ」

 隼人は弱り果ててくるみちゃんを見つめた。確かくるみちゃんのお母さんはまだ若くて、シングルマザーだった。

「ほら、ママいるでしょ?」

 隼人はサンダルを履いて外に出ると、くるみちゃんを抱き上げて隣の扉をノックした。返事はない。そんなはずなないだろう。隼人は憤慨した。さっきはあんなにうるさい音をたてて掃除機をかけてたじゃないか。

 もう一度ノックしてみた。やっぱり返事はない。隼人はそっとドアを開けてみた。鍵はかかっていない。

「ほら、お留守番してるんでしょう? ママが帰ってくるまで待ってなよ」

 隼人はくるみちゃんを家の中に入れようとしたが、くるみちゃんは隼人の首にギュッと抱きついて離れようとしなかった。

「一緒ににゃんにゃん探すの!」

「かんべんしてよ、くるみちゃん。僕は疲れてるんだ……」

 くるみちゃんは、より一層隼人の首にしがみ付いてきた。くるみちゃんからフワッとこどもの匂いがした。くるみちゃんの体温が首から隼人に伝わってきて、隼人はぽかぽかしてきた。

「もう、じゃあアパートの周り一周だけしてあげる。そしたら帰るんだよ」

* * *

 隼人はくるみちゃんを抱いたままアパートの周りをゆっくり歩いた。猫は見つからなかったが、アパートの裏手には猫じゃらしとヘビイチゴが大量に生えているのを見つけたし、アパートの階段下には小さな紫の斑点のある葉っぱのついた植物が生えているのも見つけた。

「これ知ってる」隼人はくるみちゃんを下ろした。

「ほら、引っ張って茎を切ると白い液体が出てくるんだよ」

くるみちゃんが茎をちぎると、小さな植物からは想像もできないほどたくさんの白い液体が茎からぽたぽた垂れた。くるみちゃんは目を輝かせ、夢中になって茎をちぎった。その間に隼人は猫じゃらしとヘビイチゴを集めてくるみちゃんにプレゼントした。

「さあ、もう満足したろ。帰って部屋でおとなしくしててね」

 隼人は右手にヘビイチゴ、左手に猫じゃらしを持ったくるみちゃんを抱き上げて、くるみちゃんを部屋に戻そうとした。

「にいにも来るの! にゃんにゃん探すの!」

 くるみちゃんは隼人のズボンの裾を引っ張って、なんとか部屋に入れようとしてくる。

「僕は入れないって! ね? いい子だから、分かってくれるよね?」

 隼人はくるみちゃんに言い聞かせたが、くるみちゃんはヘビイチゴを放り出し、玄関に転がって手足をバタバタさせ、大声で泣き出した。その声の大きいこと、アパート中の住人全部を起こすような大声だ。

「ちょっと!」

 隼人は大急ぎで玄関に入ってくるみちゃんを抱き上げた。

「困るよ、そんなに泣いちゃ。いったい今日はどうしてそんなに聞き分けがないんだい?」

 くるみちゃんの家は隼人と同じ作りの1Kだった。ただ隼人の部屋みたいに角部屋ではないので、窓が一つ少ない。

 くるみちゃんは隼人のスウェットに鼻水をべっとり付けてから、隼人を大きな目で睨みつけた。

「一緒ににゃんにゃん探すの!」

「もう、弱ったなあ。じゃあほんの少しだけだよ? いいね?」
 隼人は玄関のドアを開けたままにして、くるみちゃんの家におじゃました。部屋の作りは同じなので、トイレや押し入れの場所は分かる。

「こんな小さな子に留守番させるなんて」

 隼人はくるみちゃんのおもちゃをまたいで、押し入れを開けながら言った。

「君のママはよく留守番させるのかい?」

 隼人はくるみちゃんに尋ねたが、くるみちゃんは自分のおもちゃ箱をかき回すのに夢中で返事はなかった。

 押し入れの中、トイレの中、クローゼットの中、洗濯機、カーテンの裏、全て探したが猫はいなかった。

「ねえ、くるみちゃん、ぼくもう帰っていいかな?」

 冷蔵庫の裏の隙間を確認しながら、隼人はくるみちゃんに聞いた。くるみちゃんはそれを無視して、流しの下を指差した。

「じゃあ、そこを見たら僕帰るからね」

 隼人が流しの下に置いてあるフライパンを出して奥を探しているちょうどその時、くるみちゃんの母親が大きなスーパーの袋を下げて帰ってきた。

「あー! ママー!」

 くるみちゃんは嬉しそうな叫び声を上げて母親に飛びついた。若い母親は鍵をかけたはずの自宅の玄関が開けっぱなしなのに驚いた。そして、若いスウェット姿の男性が自分の家のフライパンを持ってしゃがみこんでいるのに二重に驚いたのである。

「ちょっとあんた! うちで何してるのよ!」

 母親は袋を取り落として叫び声を上げた。隼人は心臓が止まるほど驚いてフライパンを放り出し、キッチンから部屋に避難した。

「落ち着いて下さい! 僕は隣に住んでいるものですよ。ほら、何回か会ったことあるでしょう? 思い出しました?」

 しかし母親は聞いていなかった。今しがた隼人が放り出したフライパンをつかみ、靴も脱がずに隼人に迫ってきた。

「わー! 落ち着いて下さい! 違いますって! 話を聞いて下さい!」

「娘に何をしたか言ってごらんなさい! さあ、白状しなさい!」

母親は隼人の鼻先にフライパンを突きつけた。隼人はムッとして言い返した。

「それを言うならあんたはこんな小さい子をほったらかしてどこ行ってたんだ! 買い物に行ってたって言うのかい? なんで子どもも連れて行かないんだ! それに朝早くからガンガン掃除機なんかかけてくれるから、僕は貴重な休日に昼まで寝ることもできないじゃないか!」

 その時、隣の部屋にいたピーコが「アブナイ! アブナイ! アブナーイ!!」と金切り声で叫んだ。その声を聞いた母親の顔が蒼白になり、フライパンを振りかざし、隼人を窓際まで追い詰めた。

 隼人は必死の思いで後ろを振り返ると、窓が少し開いていた。幸いここは1階である。隼人ははだしのまま窓から飛び出し、柵を飛び越えて脱走した。

「あ! 待ちなさい! 警察を呼ぶわよ!」

 母親が叫ぶ声が聞こえたが隼人は自分の部屋の窓から自宅に避難し、窓をピシャリと閉めた。

「ああ、なんて災難な日なんだろう」

 隼人はぐったりして部屋を見回した。出た時と変わらず汚れた皿は山盛り、バスケットはそのまま、ピーコは鳥かごの中であばれながら「アブナーイ!」と叫んでいる。

「なんだよピーコ、うるさいぞ」

 隼人はピーコを黙らせようとひまわりの種をピーコの口に押し込んだが、ピーコはプッと種を吐き出すと怒ったように隼人に向けて口ばしをカチカチ鳴らしてみせた。

「変なやつだなあ」

隼人はピーコから離れて汚れた皿に向かおうとした時、ふと違和感を感じてバスケットを見た。「……そういえば窓が開いてたっけ」

 隼人は洗濯物が入ったバスケットに近づくと、そっと蓋を開けた。

 中では立派な太ったトラ猫が、隼人の衣類の上で丸くなって寝ていた。トラ猫は気持ちよさそうに寝ていて、お腹が上下に規則正しく動いている。

「うへぇ! やっぱりな」

 隼人は寝ているトラ猫に恨みがましく話しかけた。

「お前のせいで僕の大切な休日が台無しだよ。どうしてくれるんだい?」
 その時、隼人の家の玄関が開いて、くるみちゃんが中に入ってきた。

「あー! にゃんにゃん!」

 くるみちゃんはトラ猫に近づくと、手に持っていた猫じゃらしでトラ猫の顔をくすぐった。トラ猫は小さくクシュンとくしゃみをすると、バスケットから出て、前足を思いっきり前に突き出して伸びをした。

「まあ! うちの猫がお宅におじゃましてたんですか?」

冷静さを取り戻した母親が隼人の家の玄関に現れた。

「おい、もう二度とうちに来るなよ。フライパンで殴られるのはごめんだからな。もし次きたら、お前にクリーニング代を請求してやる」

 隼人はトラ猫の毛がたっぷりとついたシャツを猫の前で振ってみせた。トラ猫は隼人に軽蔑した視線を投げかけると、尻尾をピンと立てて堂々と玄関から出て行った。

「にゃんにゃんー!」

 くるみちゃんもトラ猫を追いかけ、くるみちゃんを母親が追いかけて行った。

* * *

 それから数時間後、隼人がコンビニに行くため外に出ると、隼人が置き去りにしてきたサンダルが玄関先に置いてあった。サンダルの上には猫じゃらしとヘビイチゴが乗っていた。

「ははは、くるみちゃんだな」

隼人はヘビイチゴをふるい落としてサンダルを履くと、ふと目の前にあのトラ猫がいるのに気がついた。

「おい、お前ヘビイチゴとか食べれるかい?」

 そう言って隼人はヘビイチゴをトラ猫に差し出したが、トラ猫は隼人を小馬鹿にしたような表情で見た後、階段下の狭い隙間をシュッとくぐってどこかに消えてしまった。

~ end ~

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