ずっと正気でいることの狂気(漫画家・押見修造について)
先日ありがたいことに、たいへんに私淑してきた漫画家のひとりである押見修造さんのインタビューに立ちあい、記事執筆を担当する機会をたまわった。(マジでうれしかった~~!)
これまで作品を読んでの押見さんの印象は、描く作業を通じて「自分とは何なのか」というほとんど回答不可能な問いへと突き進み、穴があくほどに自分自身をじいっと見つめ続けている人だ。
このたび実際に顔を見てお話をすると、芸術や文学を通じてものごとの真理に到達しようとする人のおもむきがあり、それでいてコミュニケーションのやわらかい素敵な方だった。こういう人に私もなりたい。
で、もともとの印象は別に変わらなかったが、加えて話しぶりから「自分と向き合いつづけた結果、自分自身をまるで他者のように扱うことのできる人」だと思った。彼は自らに対してかなり客観的であった。そうでなければあんな漫画は描けないのかもしれない。
話を聞きながら、私のなかで強く際立った部分がある。
「痒いからかく」というのは道理であり、まったく正気の沙汰である。でも多くの人は、かきすぎると炎症を起こしたりして大変なことになるから……となるべくかかない。ずっとかかないでいるうちに、痒さを忘れてしまうこともあるのかもしれない。
考えてもどうにもならなそうなことをそれでも考えてしまうことは、とてつもなく自然なことだ。私にとっては、答えが出ないからといって考えるのをやめられる人のほうがどちらかといえば異常に思われる。「痒いのにかかない」なんてできない。
こうして痒いところに手を伸ばしては何年もかき続けている人間の正気は、世間では狂気と呼ばれやすい。もっと正気になろうとするほど狂気を帯びていくらしい。
押見さんの漫画で描かれる「僕は男を背負わねばならないのか」「僕はなぜずっと親の存在に苦しめられているのか」といった問いは、すべて「自分は何者なのか」「人はなぜ生きるのか」ということにつながっている。
彼はそういうことをずっと正気で問うている。まるで自分が他者になってしまうほど冷静に。
押見さんの漫画を読んでいる間は、自分自身が抱える“狂気”、というか自分のなかにある世間が「この人めんどくさっ」とか「こいつ生きづらそう」などと見なしてしまう側面を、正常なものとして扱うことができる。こういう作品に出会うとほんとうに安心する。
人生や自分に対して徹底的にまじめであることが狂気ならば、私はやはりその狂気のほうを信用していたい。私もずっと正気で生きている。
そのインタビューは「ebookjapan」に掲載されております。ぜひお読みください!
ついでに『血の轍』についても書いております。こちらもよろしければお読みください!