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コミュ力=SNS力?

 SNSで大部分は可視化されるのだから、SNSであげていないことにも気づく、ということが1つのスキルにされてしまった社会。生きづらくて窮屈で常に人のことを考えていなければいけない社会。SNSは人の感情や思考、思想をいい意味でも悪い意味でも表面化し、そこに記されている絵文字ひとつからでも相手の感情の奥底まで推測し、気を遣った接し方をしなければいけない。それがうまくできるかできないかを「コミュニケーション」の能力として評価されてしまう今、世界におけるコミュニケーションとは意味が多元的になっているのではないだろうか。

 SNSに感情を表面化することのメリットとデメリットについて考えていきたい。仮に、1人心を病んでいる人Aと、それを知らずにAに連絡しようとしている知人Bがいたとしよう。
 まずは、パターン1として、Aが「心が病んでいる」と直接的な表現でSNSに投稿したとする。この時Bは、「Aは今辛いんだな」ということが一目でわかり、Aとの距離感を考えやすくなる。AがSNSを日記や捌け口として使っているとしたら、これはそれらを公開する=日常感情を表面化することで、今自分がどのような気持ちかを他者が把握し、コミュニケーションを円滑に進めるという点において、感情をSNSに表面化することのメリットと言える。
 続いて、パターン2について考える。Aが悲観的、あるいは猟奇的、狂気的な文章を、詩的な表現でSNSに載せる、あるいは自傷行為の写真(本人かは定かではない)や、マイナスイメージを連想させる写真を載せるなど、一度受け手に意味を考えさせる投稿をしたとしよう。ここで重要なのは、一度受け手がどんな意味かを考える、という手順があること、つまり、受け手によって捉え方が異なる可能性があるということだ。本文ではこの手順を、「分岐点」と呼ぶことにする。パターン2においては、「投稿を見る→Aが悲しいことを察する」という一点の分岐点がある。つまり、この分岐で「Aが悲しいことを察する」というルートに行かないと、BはAが望まない対応をする可能性が大きい。そう、この分岐点は多ければ多いほど、「すれ違い」が起こりやすくなってしまうのだ。
 さらに難しいパターン3について考えていく。これは分岐が2点以上あるパターンだ。BがAとやりとりをしてる際、急に絵文字がなくなったとしよう。受け手はまず「絵文字がなくなったことに気づくかどうか」という分岐点がある。ここに気づかない時点でAの悲しい気持ちは気づいてもらえないことになる。そして、「絵文字がなくなった→絵文字をつける気力もないのだろう何かあったのか→悲しい思いをしているのかもしれない」というルートを通るのも極めて難しいことだろう。人は10人いたら10人の受け取り方があると言われている。つまりは無数のルートの中からこのルートに辿り着かなければならないのだ。これは極めて難しい。そして、現代社会においてこのパターン3が、「気遣い」「コミュ力」として扱われるのである。

 今現在、このパターン3は世の中に蔓延っているのではないだろうか?つまりは意思の疎通が従来よりも難しい状態にあるということである。「本心」と「SNSに書く心情」に乖離が起こっている場合は極めて少ないと思っているが、その表現の仕方にはかなりの比喩表現や遠回しな表現が含まれている場合が多い。現代の子供はSNSの影響で読解力がないと散々言われているが、むしろ今の時代、SNSで人と関わることは一種の思考力、読解力が必要なのではないか。
 私はまず、このSNSにおける思考力、読解力が必要な環境、つまりはデジタル化した社会をどう緩和していくかが重要になってくると考える。いかに人間が、「考えながら考えずに人と関われるか」ということが極めて重要になってくるだろう。現代はSNS社会であり、そこを基盤にしたコミュニティから逃れることはもはやできない。だからこそ、SNS社会におけるコミュニケーションというものを、私たちはもっと考えるべきである。

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