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その先が受容だった

私は大学で文化人類学を専攻している
専攻も所属する学生団体も色々な価値観をよしとする場所だ

だから自分は「多様性を受容できる人間」だと思っていた


偉そうにそう思っていたくせにこの投稿を見てその感覚が崩れた

「フィクトセクシュアル」

ってみなさんは聞いたことありますか?

フィクトセクシュアルとは、架空のキャラクターに性的な魅力を感じるセクシュアリティです。一方、感じるのが恋愛的な魅力であればそれはフィクトロマンティックと言えるでしょう。

私は専攻の分野にLGBTQも入っていて、セクシュアルの種類が膨大にあることも分かっていたけど、

架空、二次元の相手に性的魅力を感じることがセクシュアルになる…?!


私の中の当たり前の構図として

愛=人間に対して向くものである

という感覚の崩壊に動揺した


動揺はしたけど、「まあそういう人もいるよね、うん」って受け入れようとした。したけど、
どこか…ひっかかる…

次にたどり着いたのは

「セクシュアルも含めてこういうのってどこまで受容すべきなの…?」


友人にこのことについて話すと、
「受容すべきっていうことではないんじゃない?そういう人もいるんだって思うだけでいいし名前が付くから認知されることってたくさんあるよね。」


目から鱗だった

私はいつの間にか「受容してあげている」と思い上がっていた
私は異性愛者でマジョリティで、そんな自分が
理解がある風に見せている自分に酔っている

愛は人間に向けられるものという当たり前が崩れた


そして同時に感じた

本当に受容する、受け入れる、理解するってことは
知ることの向こう側なのだ、ということを

ただ知るだけじゃなくて、ただなんとなく受け入れるだけじゃなくて、自分で咀嚼して考えて、自分の当たり前とか、自分の偏見と向き合って、
その先に見えるのが受容


多様性はめんどくさい、自分の価値観だけで行動できないし、たくさんのことを知って受容して配慮して、その度に自分の当たり前と偏見に向き合わなきゃいけない

でも、ひっかかっても、納得がいかなくても、自分で咀嚼して考える。
知ったときにただ受け入れるのではなく自分の頭で考える。

これが本当に多様性を受け入れるっていうことなのかもと思った。



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