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さくら倶楽部を作ろうと思ったきっかけ。その1。〜あまりにも出来が悪い「旦那ハン1号」とその周りで起こったこと〜

私が結婚したのは23歳のときだ。当時の旦那さんは1つ年上の24歳。彼と出会ったのは彼が大学生の時。今では4年制の大学に学校が変わったのだが、当時は3年通う短大の生徒だった。 

医療関係の学校だったのと、母が役員を務める病院のアルバイトに来ていたので、私はそこで彼ができる人なのだと「勝手な想像」をしたのだ。

その勝手な想像が暴走し、母の反対を押し切り交際、同棲してそのまま妊娠、結婚した。まだ新しい資格をとるために3年学校に行かなければならなかったのに。だ。

学生という立場でアルバイト生活をしながら生活をしていた、ということは当然収入がない。殆ど無いのだ。そこで、私がなんとかする。という責任感を負いながら子供が生まれて間もなく職場復帰を果たし、そして週末には司会者として歌のお姉さんやら、キャラクターショーの司会やら、お笑い芸人さんのステージの司会やら、時には政治関係の司会にもご縁を頂いたり企業のパーティーなんかにも呼んでいただいた。

司会の合間には子供をベビーシッターに預けてアルバイトをしたり、在宅でできる内職をしたり、とにかく時間が許す限りお金を捻出してきていたのだ。

私は旦那はんが、学校を卒業したら、ちゃんとその分は稼いでくれる。と信じていたし、そこに希望を持って毎日仕事もしていた。作る食事に文句も言われたが、そんなときは食事を作るのをやめた。文句言うなら自分で作れよ・・と思ったからだ。

でも食事に文句を言われたことで、絶対に文句を言わせない。ということを心に誓った私はとにかく文句を言われない食事を作った。するとだ。

旦那はんは、結婚してから2年で20キロ太ったのだ。

177センチ。体重88キロ。

このときばかりは「勝った」と思った。笑。

飯がまずければ食べない。ということ。つまりは作った飯がうまかったら食いすぎた、ということだ。

そして、そんな旦那はんが結婚してから5年で独立して事業主として医療施設を開業したのだ。そのときには子供が3人。田舎町に300坪の土地と住居と職場が一緒になった家を建てた。地域に根ざす医療施設にしたい、という旦那はん。

だがしかし。だ。

一向にお客様、つまりは患者さんが来ないのだ。

新規は来る。しかしリピートがつかない。

おかしいなあ・・。なんでだろうとずっと思っていた。

私はというと、その職場を手伝うという選択はしなかったのだ。なぜなら、2人で同じ仕事をしても、もらえるお金は限られる。それであれば、違う仕事でそれぞれの収入があればその方が生活が安定すると思ったからだ。

当然ローンの支払、子どもたちの学費、更には1人目の子供が喘息で入退院を繰り返していたため、医療費だけでなくそれにかかる交通費や、下の子を預かってもらえる施設のお金など、色んな負担がかかった。

当然旦那はん一人の稼ぎではなんともならない。

そこでだ。結局は私がまたしてもここで働かなくては。という意識が働いたのだ。

結構働いたと思う。今から考えても。

それでも旦那はんはマイペースにお客さんの診療をしている。

ある日、旦那はんの稼ぎについて疑問に思い、旦那はんの収入を確認する機会があり、年間の収入を見たのだ。

年収80万。

え?!

経費でごまかしてるのか?と思ったけどそんな様子もない。

年収80万ですよ、月で割ったら66,000円。
たった6万ですよ。
アルバイトか!!ってホンマにがっかりした。

結局足りないお金は何を当てにしていたのかというと、私の稼ぎと私の預貯金と、旦那はんの親御さんのお金をアテにし、使い込んでいたのだ。

それには開いた口が塞がらなかった。

人の金をアテにして自分は収入のことを考えず、意固地になって仕事をしていただけで家族の為に何かをしてくれた、ということがなかったのだ。

お金だけが全てではない、という考えもあるかもしれないが、稼ぐための自分の医療施設まで建てておいてそれを維持できないなら辞めちまえ!!

と思った。

けどそれも言うことを聞かず、「院長」という言葉だけに満足していたようにしか思えない仕事をしていた旦那はんに愛想を尽かして私は子供を自分で育てようと覚悟を決めた。

別居を始めたのはその頃からだ。

籍を抜きたいと何度も何度も言っていたのに、ずっと離婚を拒んでいた旦那はん。私は別居をし、子供の生活費を捻出するために、辛かったが子どもたちは旦那はんの両親に預けて仕事に出かけていたのだ。

籍を抜くのにものすごい時間がかかった。

離婚してくれ!と何度も言ったのだが何も聞き入れずとにかく無視を決めつけられた。弁護士を通しても条件が合わず何度も何度も時間をかけて離婚の話をしたが結局離婚したい!と言ってから正式に離婚が成立するまでに10年かかったのだ。

あまり良くない環境下ではあったとは思うけど、当時自分の親と離れた地域に住んでいたこともあり、子どもたちを守るためには離婚協議中の旦那はんの親御さんに預けるしか方法が見つからなかった。

私にとっては人質に預けているような気分・・ではあったが、子どもたちには旦那はんの両親は良くしてくれた。

そこは感謝もしているけれど。

当の旦那はんは私が家を出てからとにかく病んでいく。どんどん病んでいっているのが分かる。職場も乱れていてそんなのじゃ患者さんなんてこないよと本気でそう思っていた。

私はそれに負けずにとにかく子どもたちの為に働かなきゃと思って動いていたのだが。子どもたちが大阪の学校に進学したい。

と言い出してから私の人生がまた大きく変わった。

よくよく考えたら子どもたちが旦那はんの離婚成立の後押しになったのかも知れない。私は大阪が生まれ故郷でもあるが、旦那はんがいた地域に特に子どもたちが執着をしていたわけでもなく、大阪に居るほうが自分たちにとってもメリットが沢山あると感じたのかも知れない。

私は子どもたちに大阪に行こうといったことは一言もなかった。でもそれを選択してくれた子どもたちに今では感謝をしている。

稼げない旦那はんのおかげで、私はずいぶん強くなったと思う。

そしてプライドだけでは人生食っていけない、ということも旦那はんから教わった。

旦那はんの心の支えになってあげることができればよかったのだが、旦那はんがそれに答えてくれなければ夫婦として成り立たない。

じゃあいざそんな旦那はんから離れるために自分がどうすればいいのか、ということを考えたときに、本当に色んな人からの手助けがあったことに気づいたのだ。

身内のお金は頼りたくなくて、とにかく自分でなんとかしたいと思っていたので、生活費が無いからお金を稼がなくてはいけない、どうしたらいいと思う?と相談したときのママ友のアドバイス。

週一の不定期な仕事よりも定時で上がれる仕事で定額貰える仕事をするほうが安定している、とその時教えてもらったおかげで大手二輪メーカーの開発のお仕事につくことも出来た。

司会仲間の先輩のおかげで、コンパニオンのお手伝いをして日銭も稼いだ。披露宴が減った、といえば葬儀の司会で毎日の生計を立ててみたらいいよと葬儀の司会を教えてくれた先輩もいた。

昼間は葬儀の司会、土日は披露宴の司会、夜はコンパニオンの仕事をしながら、料亭のお仕事もさせてもらった。

色んな仕事が私を成長させてくれたのだ。

そんな自分の経験は、私一人の経験でなく、色んな方からのご縁でつながった仕事。そんな経験をしてきた自分の縁つなぎが出来ないか・・。

色んな経験を話すことで沢山の人に役に立つことが出来ないかなとずーっとずっと悶々としていたのだ。

でも何をしていいかわからず、ずっと徘徊していた気がする。

本当はこんなことしている場合ではないのに何やってんだろう。と思ったこともあった。

女性って結局色んなことを我慢せなあかんのか?自分らしく生きるってなんなんだ?キラキラ女子ってなんやねん??
そんな疑問がぐるぐる回り始めた。

そして少しずつ自分の中で頭の整理をつけるために今ここでこんな風に記事にしているのかも知れない。けど、私の想いはぶれていない。

シングルマザーであっても、ママであっても、ママを卒業した女性でも、独身でバリバリ頑張っているキャリアウーマンの女性であっても、あらゆる場所で女性らしく生きる場所とそれを認めて貰える場所や、頑張ってるよね!

と励まし会える場所、それからそんな女性同士が集まって応援できる場所があれば、もっともっと自分らしくいてもいいんだ。

と思える人が増えるんじゃないかなと思うのだ。

色んな人と出会ったことでそんな思いが強くなり、旦那はんのおかげで強くなれた自分が、つらい思いをしている女性のことを応援してあげられる自分でいたいと思う。

・・・とまあまあ綺麗事を書き連ねたが、笑。

女性同士のコミュニティー、ママとか起業家とかの縛り無しでフェアに何か応援できたらその方が楽しいやん。って話。

私が伝えたいのはそれだけ。

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