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拭えないリチャードクレイダーマン感。

突然ですが、リチャードクレイダーマンを知ってますか?

甘く切ないメロディーを奏でるフランス人ピアニストです。
日本では有名ですよね。彼は日本と縁が深いようで、毎年来日してコンサートを行っているそうです。

そんな彼の音楽は、当初日本で、「ニュー・イージーリスニング・ミュージック」と称されてプロモーションされたそうです。『新時代の聞きやすい音楽』といったところでしょうか。

世の中の流れが、そういう音楽を求めていたんだと思います。彼はそんな時代の流れにぴったりハマった人でした。。

誰もが聞きやすく、馴染みやすい、シンプルなメロディー。
甘酸っぱくてほろ苦い、どこか切なくて、ロマンチックなメロディー。
可憐で繊細なイメージは、夢見る少女のようなキャラクターを彷彿とさせます。それでいて華やかさもあって、軽やかでキラキラっと流れるようなパッセージ。
これが、私が持つ、リチャードクレイダーマンの楽曲のイメージです。

聴くもよし、弾くもよし、と言った感じで、趣味でピアノを習う人たちでも楽しく演奏できる音楽でもあります。情感たっぷりに抑揚をつけて演奏すると、気分はすっかりピアニストです。

「浅い」音楽、と言ってしまえばそれまでですが、『聞きやすい音楽』と言い切ってるくらいだし、浅さは承知の上で狙ってのことだと思います。

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で、何が言いたいかというと、このリチャードクレイダーマンが与えた影響は実に大きいのではなないか、ということです。どういうことかというと、聴衆の耳は、この手の、「甘酸っぱい、ほろ苦い、切ない音楽」に慣れ過ぎてしまったんじゃないかな、と思うのです。

ある時期から、リチャードクレイダーマンを筆頭に、似たような『聞きやすい音楽』が、ファーストフードのように手軽に楽しめる音楽として、一気に浸透していったように思います。ポップス、映画音楽、そして合唱曲に至るまで、「甘酸っぱい、ほろ苦い、切ない」は今でも根強い人気があります。

知らず知らずのうちに影響を受けている、ということはよくあることです。それを好きか嫌いかは別として、私たちは聞いてきた音楽に少なからず影響を受けています。

現代では、ポップス、ジャズ、映画音楽、ミュージカル、様々なジャンルの音楽が日常に溢れています。それらの音楽に使われているリズムや、サウンドの抑揚、細かなニュアンスに至るまでが、無意識に自分の中にインストールされていることがあるんですよね。

ここでマズイのが、クラシック音楽を演奏するとき、リチャードクレイダーマンっぽい世界に引きずられてしまう可能性がある、ということです。自分の中の感覚が、どこかでそれを『美しい』と認識しているからです。

クラシック音楽はすでに作曲家によって完成された作品です。本来であれば、クラシック音楽にいろんなジャンルの音楽要素を含ませたくはありません。けれども、『聞きやすい音楽』に耳が慣らされていると、ついうっかり、クレイダーマンぽくなったりすることがあります。そしてそれが癖になっていることもあるのです。

作曲家が曲を通じて伝えたかったメッセージに、余計なものが入り混じっている、というのが、最近のよくある演奏です。なんの混じり気もない、オーガニックなクラシック音楽を演奏することは、現代ではとても難しいということです。

ショパン、シューベルト、メンデルスゾーン、モーツァルト、みんな短命でした。想像するに、短命な人生というのは、苦悩や心残りが多い人生だと思います。そんな彼らが音楽を通じて表現したかった人生観ってどんなものだろう?そんなふうに考えると、彼らの人生観が「甘酸っぱい、ほろ苦い、切ない」で語れないことは明らかです。

『本番では冷静でいるのが良いんだよ。シンプルに演奏するのが良いんだよ。』これはイリヤンがいつも生徒に言うことです。その理由は、作曲者からのメッセージをそのままに伝えるのが音楽家の仕事だからです。

リチャードクレイダーマンさん、子供の頃、一度コンサートを聞きに行ったことがあります。

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