2024/09/20〜2024/09/22 東京

今、22日の帰りの新幹線で書いている。最近、書いてない気がして。

めちゃ楽しかった。でも、寂しさもある。もう終わってしまったっていう気持ち。

昨日の夜は明日で終わってしまうけど、朝から会うからゆっくり過ごせるだろうなと思っていた。今日はゆっくり過ごしたし、楽しかった。でも、今思うと、すぐに終わってしまったというより、もっといられたらなと思ってしまう。さみしいんだと思う。

今日、疲れたな〜で寝て明日起きてすぐに日常に戻ってしまう。旅行とか楽しかったときの次の日はすぐに日常に戻ってしまう。なんか、やだ。もっと余韻?長くその時間を過ごしていたい。

毎回思うのが、楽しい時間って儚いなって思ってしまう。いつも、帰路につくたびに思うし、毎回思ってるなって思う。まあ、毎回印象に残るような強烈なことをしているわけではないから、当然なのかもしれない。印象に残すために、何かの観光名所に行ってどこそこに行ったでしょって印象付けているのかな?
子供の頃に友達の家に遊びに行っていて、帰りのチャイムが鳴って帰らないといけないってなる気持ちかも?それが、旅の終わりの気分と似てるのかも?少なくともこの旅の。

あと、旅に行くたびに思うのだが絶対に自分は旅先よりも誰と過ごすかのほうが大事なんだ思う。
行きたいところがそもそもあんまりないっていうのはあるけど、あまり会わない人との口実が旅だったり、普段会う人をもっと知りたいと思ったら旅に行くような気がする。旅先は関係ない。だって、楽しく過ごせる人としか旅にいかないから。

ほんとに旅先のことを何も考えていないから、計画もほとんどたてないし、会ってその人と過ごせていればもう満足。普段から会う人なら、話をしているときの時間が楽しいのかも。普段とは違う話題をしたり、一面が見られたりするから。

これを書こうと思ったのは、最近書いてないし時間があるなって思ったのもあるけど、楽しかったな〜って思っていたら、急にさみしいなって思う気持ちが来てそれを残しておきたいと思ったから。すぐに非日常が日常に戻ってしまうから。

書いていて思うのが、多分、自分の気持ちを伝えるのは、話をするよりも書くほうが個人的には伝えやすいのかな?なんか、話をするって難しいというか文字は自分の中で全体像がうっすら見えながら書いていって形にする感覚。でも、話をするのは話した言葉は戻せないから、難しい。

書くという行為は時間をかけて行えるからなのかも?話をするのは沈黙というリアクションになってしまう。それが何を意味するのか相手は考えないといけないし、伝えなくてはならない。めんどい。

なんでこんなことを書いているんだろう?旅の思い出を書こうと思っていたのに。

書くという行為は自己で、ある意味完結するからなのかも。話は相手がいないといけないが、手紙にしても日記にしても相手の反応はこちらでは予想できないし、無反応もあり得る。だから、他者が入れるだけで自己完結が可能だ。

もしかして、自分は他者を求めてない?なんか、少し不安になってきた。そんなことはないと思うけど。

関係ないけど、母さんが兄弟に届け物をするときに手紙でちゃちゃっと書いていたのを思い出した。ラインで送るよりも早いし楽じゃろっていよった。たしかにそうだなと感心したのを思い出した。
何かを伝えるのは自己満足でいいのかも?飛躍したかな?わからんから、ここまでにする。


旅行の内容をあんまり細かく書かないと思うから、記録として下に書いておく。

20 神保町探索、武蔵境で宿泊、ラーメン食べに行ってカードキー無くす
21 大学見学、吉祥寺でご飯、夜にホテルの近くの銭湯に入りに行く
22 温泉に入る、めっちゃダラダラしながら過ごしたかな(楽しみながら)、朝から会えて満足

20日には神保町は楽しめました。カードキーを無くしたから、夜に飯を食べに行くのはリスキーだなと思った。

21日に友達の大学に行ってみたのだが、ぜんぜん違う。美術大学は普通の大学とは違うなって思わされたし、想像を超えられた。 

22日いろいろ動いては休んで動いては休んでって感じ。のんびり、ゆったりした。


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