ホテルの防犯カメラに記録された自分と加害者の映像を、ホテルに無断で、民事裁判の証拠として提出する以外の目的で使用しないという約束を破って、自分が制作するドキュメンタリー映画に使用した件で、伊藤詩織さんが責められる合理性はないと思う
そもそも防犯目的のビデオ録画なら、当該ホテル内での犯罪や被害につながりかねない行為をチェックし、もし起こってしまったかもしれない時には、警察の捜査や犯罪被害の特定に協力するために使用するもので、被害への補償の請求や被害者の尊厳回復や同様の被害を減らすなどの公益に資する行為のために使用する許可を乞われた場合に、映像の使用がホテルに明白な不利益をもたらす具体的リスクがないのに、使用を当然に拒絶する理由はないのではないか。
そもそも公正な営業を目指すホテルであれば、利用客が、事情の説明もなく、意識のない身元の分らない人物を同室に連れ込むことは、本来許容されないはずではないのか。本件に関わるホテルは、それを許容してしまったのであり、当該ホテル利用客による、当該ホテル客室内で発生した性暴力被害を訴え、民事訴訟でその被害が認められた伊藤詩織さんに対しては、ホテル顧客の不審な行動を看過し、第三者の被害を未然に防ぐ方向で力を貸すことができなかったホテル側の安全管理不徹底という社会的道義的債務を負っていると思う。
顧客や訪問者に安全な空間を提供するはずのホテルが、性被害リスクに関して十分な危機意識を持たず、被害が発生してもそのことを反省せず、ことを矮小化したりできれば隠そうとしたり、被害者に寄り添って誠意を見せるのではなく、被害者本人が被写されている被害の証拠映像の提供を渋ったりその使用を制限したり、ホテル自身や加害者である顧客の世評を守ることのみに汲汲とする姿勢を取ることが、当前で正当な行為と世間でみなされ続けるなら、それは、日本社会の、起こり得る性被害への許容度の高さ、言ってみれば闇(の一つ)を示していると思うし、同様の被害が、日本のどこでも起こり続けるだろう。
映像に関してもう一つ。伊藤詩織さんが被った被害は、山口氏による性暴力に加えて、それを公表したことで受けた様々な誹謗中傷がある。この映像は、山口氏の詩織さんの身体に対する積極的能動的働きかけと、それに無反応でされるがままの詩織さんの姿を映しているという。詩織さんの方から誘いかけたとか、同意していたのに後から翻意したとか、そんなことはなかった。詩織さんは嘘をついていない。彼女が自分自身の映像を晒して潔白を世の中に示すことを、誰がどんな理由で禁止できるのか。性暴力と世間の誹謗中傷被害者の詩織さんが、ドキュメンタリー映画監督の詩織さんに、この映像は絶対使ってくださいと懇願し、監督は、被害者の声を受け止めて映像を使用した。日本で実際におきた性暴力とその扱われ方を世に示すドキュメンタリー映画の監督として、当然のことをしたと私は思う。
ホテル側に対して、(防犯カメラの映像を)民事裁判での証拠として提出する以外の目的で使用しないという、代理人弁護士と詩織さん連名で署名した約束を、詩織さんがあっさり破ったことについて、代理人弁護士さんが許せないと憤慨し、公の場で厳しく詩織さんを批判していることについて。弁護士として、情報提供者の利害・権利を尊重し、契約を遵守するという職業倫理に基づいた当然で正当な対応であり、自分は絶対約束は破らないという自身の潔白と、詩織さんの約束やぶりに自身は一切加担していないことの証明として、必要な行動だったのだろうと理解する。
しかし、民事訴訟は、詩織さんの被った性暴力被害とサバイバルと回復のための闘いの一部であり、詩織さんが本来望んだ加害者の刑事訴追と有罪判決が、理不尽としか思えない理由で不可能にされたことの代替策であり、民事訴訟で勝訴できたことは、この上なく大きな成果であることは疑いの余地がないけれども、詩織さんが個人の尊厳回復と同時に、日本社会で性暴力加害者よりも被害者を待ち受ける理不尽な絶望の深さや多様さを日本社会に問う闘いは、詩織さん個人のものであり、民事訴訟の代理人であっても、それを制御・制限することはできないと思う。
詩織さんとしては、約束を破っても映像を使わざるを得ないし、代理人弁護士さんとしては、そのことに怒りを表明せざるを得ない。残念な展開になってしまったが、そもそもの、被害の証拠になり得る被害者自身の映像の使用を制限しようとするホテル側の要求は、当然かつ正当なものとは思えない。代理人弁護士さんには、そこに立ち返って、いずれ矛先を納めてほしいと願っている。
伊藤詩織さんが、なぜ彼女の作品が日本で公開できないのかという海外メディアの質問に答えて、使用許可のない映像が使われた問題に明言せず、日本の文化の問題という表現で説明したことも、批判されている。しかし実際に、ホテルの態度にしても、ホテルの責任が問われず批判が向かわず、約束を破った詩織さんだけが批判される世論も、日本社会で、性加害を許さないという規範意識が低く、逆に被害を告発した被害者が荒さがしされ後ろ指をさされるという風潮があることを示している。
詩織さんの被害公表後から詩織さんを撮り続け、膨大な映像をドキュメンタリー作品に制作するにあたって協力した人は、スウェーデン人女性だという。私もスウェーデンに住んでいるが、こちらの常識では、性加害をした者が表舞台から追われるべきだし、客室で顧客による第三者への性加害を防げなかったホテルは、ネガティブな評価を受けることになるであろうし、ドキュメンタリー制作者が、自分でもある被害者が引きずられていく防犯ビデオの映像を作品に使うことに、自分の代理人からストップがかかるなどということは、説明してもよく理解されないのではないかと思う。文化の違いという表現は、日欧の性犯罪の受け止め方の違いを、詩織さんとしては日本の人たちにも気を使って、婉曲に説明したものだったろうと思っている。