切りすぎた前髪と4630万円
暑さが一気に戻ってきた。「少し涼しいね。夏ってやっぱりこれくらいだよね」の気持ちを返してほしい。
思えばやはり6月のあの気候も異常だった。普段から水分を沢山摂るタイプではあるが、今年はさらに意識的に水分補給をしている。
加えて、塩飴や塩分補給タブレットなどもわざわざ買っている。いやはや自分も大人になったもんだと感慨深く思うと同時に、歳をとって心配事が増えたとも言えるなと落ち込んだりもする。
「コーヒーも酒も水分ではないですよ」と言われながらも、朝のコーヒーはやめられないでいる。むしろ今までペットボトル一本のコーヒーで済んでいたところが、朝駅に着くまでに飲み干してしまうせいで余計にもう一本買ってしまう。
それで怖くなってまた水を買う。馬鹿馬鹿しいなと思いつつ、1日に摂取する水分全てを運んでいてはそれはそれでかく必要のない汗までかいてしまいそうで、仕方なくコンビニという巨大な冷蔵庫に入っては外からも中からも体を冷やしている。
「去年はこんなに暑かったっけ」「去年はこんなに寒かったっけ」と毎年のように言っているような気がするが、どうやら今年は本当に去年より暑そうだ。
なんだか大学3年の時の夏を思い出す。あの年もひどく暑かったが、あの頃には川があった。夜になれば川で泳ぎ酒を飲み、汗をかきながら仲間と遊び尽くしていた。あれでよかったんだよな、と今でも思うしこれからもそう思うんだと思う。
そういえば今年は今までよりも髪が長い。多分人生で1番長いしおまけに真っ黒のままだ。
夏になると金色に染めたり短くしたりしていたが、今年は全くそんな事をしていない。通りで暑いわけだ、と、この熱帯夜を髪のせいにしてみるがそれで涼しくなるわけでもない。
せめて前髪だけでも短くすれば少しはまぎれるんじゃないかと魔が刺す。
ふと思ってしまっただけのことでも、一度気になってしまっては人はそれに抗うことができない。
昨晩、我が家の洗面所には「邪魔な前髪とはおさらばだ!」と意気込む自分がいた。
「一度切ったら戻せはしないぞ」と誰かが言う。「大丈夫。失敗しないさ」と答える。鏡に向き合って刃を入れる。
ジャギ…ジャギ…と鋭い音がこだました。
おかげで、今日は最悪だった。鏡を見るたび自分から目を逸らした。もとい、自分の前髪から。
『切りすぎた前髪 奈良美智の絵だ』なんて歌詞があったな、などと思い出しながら鏡から逃げる。
「短すぎますかね?」『ソンナコトナイヨ』と言う会話の一つでもしようかと思ったが、短くなった前髪は誰にもつっこまれる事なく風に揺れている。
ふと、タバコの火がつかないほど強い風が吹いた。しかし短くなった前髪は目にかかることがない。これでよかったんだな、と自分に言い聞かせてもう一度ライターに手をかけると、更に強い風が吹いた。
ビルの隙間で力を蓄えた横風は見事に僕のまだ長い横髪に吹きつけ、顔を覆った。「これじゃ4630万円の人だ」と悪魔が言う。さっさと家中のハサミをどこかにやってしまおうと思った。