夢、言葉、人。

英語で夢を見るか?という問いに僕は「はい」と答えられるのか。

確かに、一時期は英語で夢をみていた。しかし、「夢の中の会話」というのは得てして不明瞭で、目が覚めた後では正確に思い出す事ができなかったりする。
だから一言一句何を言っていたかというのは思い出せないが、とにかく英語だった事だけは分かる、そんな状態だ。

しかし、いくら単語帳を開いたり文法を勉強したりしても夢の言語は日本語のままだったりする。
反対にアメリカのドラマを英語字幕で観たり、英語で会話をすると夢でも英語が出てくる確率が高くなる。

要は、「感覚で分かっているか」というところが大きいのではないかと僕は推測する。
英語→日本語で勉強している時というのはあくまでも脳の中では日本語として処理されているのだ。
英語→英語で考えることによって、夢に影響が及ぶ所謂「英語脳」へと変換されるのだろう。

そんな英語の夢も不思議なもので、今まで英語で会話したことのない人まで英語を使っていたり、日本語と英語が混ざるレベル高めのルー大柴みたいな事になっていたりと、夢ならではの「整合性のとれなさ」が面白かったりもする。

そう、夢とは不思議なのだ。
この前は小学生の時の同級生が突然現れたし、別に何でもなかった人でも夢に出てくると気になってしまったりもする。
夢とは深層心理を描くものなのか、それともただの記憶の整理なのか。

ドラえもんの映画に「好きな夢を見ることのできる道具」が出てきた事を思い出した。
毎度の如く紆余曲折があるのだが、ストーリーは置いておいて「自分の好きな夢」を見るというのはどのような気持ちなのだろう。
確かに、望んだ夢を見る事ができるというのは魅力的ではある。
しかし、先程も書いたように夢には「意外性」が欲しかったりもする。
勝手に浮かんでくるストーリー、いくら走っても進まない自分、高いところから落ちてしまう恐怖。
奇想天外な夢を見ることも時には楽しい。
映画を観るのも、小説を読むのも、「非現実」を味わいたいからに他ならない。
それを自分の脳内でまるで現実のように味わうことのできる夢は面白い。
自分好みのストーリーを作る事ができるなら面白いかもしれないが、考えもしなかった事が起こるのも悪くない。

「夢日記」をつけている。見た夢の全てを記録できているわけではないが、それでも後で読み返すと面白い。
「現実との境目が分からなくなるから危険」という声もあるが、もうしばらくは続けよう。
そのうちに、その内容もどこかで打ち明けたいと思う。

そういえば近頃は英語のドラマを観ていないこともあって英語の夢を見ることはない。
しかし、梨泰院クラスを観終えた僕はそろそろ韓国語が聞こえてこないかと期待していたりもする。

それではみなさん、良い夢を。

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