たとえそれが「お褒めの言葉」であったとしても。
何かを褒める時、何かを貶さなくてはいけない人にはなりたくない。
特に一貫したテーマがあってこのnoteたちを書いているわけではないが、常々感じていることは「伝える事の難しさ」である。
日頃なんとなく感じている事をこうして文に起こしているが、毎度悩んでは消し悩んでは消しを繰り返している。
文字にする、というのはどうやらモヤモヤとした、フワフワとしたはっきりとしていないものたちに形を持たせる事らしい。
つまり、心の中にある「なんとなく」と向き合い、それを言葉という金型に入れて成形しなくてはいけない。
そしてそれはどうやら一筋縄でいくようなものでもないらしい。
これは文章に限ったことではない。むしろ、公開する前に何度も読み返す事ができる分だけ気は楽だ。
本当に難しいのは早さが求められる日々の会話であったりするのではないか。
僕は何かを貶す事が好きではない。自分でもなるべくしたくないし、人が何かを貶すのを聞くことも気分が良くない。
そんな事を言うと、既に僕はその人の事を貶しているようで見事にパラドックスになっているのだけれど。
たとえ話をしよう。聖書を良く読む人達なら馴染みはあるはずだ。
あなたは何か仕事をしている。普段はあなただけがその場所でその仕事を任されている。ある時、あなたと同じような仕事を、別の人が担当したとしよう。
その時、上司なり同僚なりから褒められたとする。
「彼よりも君の方がよかったよ、彼はダメだね」と。
褒められているのだから気分はいいはずだ。しかし、僕にはその褒め方はなんだか釈然としないのだ。
なぜ、人を貶す必要があるのだろうか。
より「褒めている感」を出したいのか、「比較する」ことで何かを明らかにした気分になりたいのか。
僕には分からない。もはや何が釈然としないのかも分からない。
その悪口のようなものの矛先がいつか自分に向くかもしれない事が怖いのか。それともただ単に嫌なだけか。
これは「謙遜」にも当てはまるかもしれない。「自分」を貶して何かをあげる行為もまた、何かを貶している事に変わりはないのではないか。
行き過ぎた謙遜は嫌味に近くなってしまう。「僕なんて…」も聞き飽きるほど聞かされれば良い心地はしない。
もちろん、褒められた時の照れ隠しでする謙遜もあるかもしれないが。
しかし、確かに褒めることは簡単なことではない。自分でも果たして同じような事をしていないかどうかは分からない。無意識のうちに人や自分を貶している事もあるかもしれない。
だとしても、いやだからこそ、僕は人を褒めるための語彙力が欲しい。
何か自分が良いと思うものに出会った時、その気持ちをうまく伝えられるようになりたい。
ただ「良い」というだけではなく、自分の言葉でその感情を形にしたいのだ。
そんな言葉の金型を、どうにか増やしていきたいと思う初夏の夜であった。