彩度

「灰色だった世界に色がつく」みたいな表現はありきたりかもしれないが、その比喩はなるほど確かにと思わせるものだ。

たとえば、去年あたりから写真をはじめた。今までは撮ってただ出すだけだったのが、編集ソフトを使ったり、フィルムを変えたりするとその変化は(自分にしか分からない微量のものだったとしても)面白い。
同時に、世に溢れる様々な写真に対しての見方も大分変わった。
「これはどう編集しているのかな?」「どんなレンズを使ってるのかな?」「どんな設定でシャッターを切ったのかな?」などと妄想を膨らましている。

動画編集もそうかもしれない。
去年、公開したものしてないものを合わせて数本動画を作った。加えて、ライブ配信のカメラを担当しながらスイッチングをしたり、カメラを仕込んだりしている。
そうすると自ずと世にあるライブ映像やその他の映像全般に対しても色がつく。
「このアングルはどうやっているのだろう」「このボカし方はすごいな」「なんとなめらかなパン振りだろう」などと今までとは違う見方をしている。

音楽制作についても同じことが言える。自分で録音して、自分で編集をしていると今まで何も気にしていなかった音が情報量を増して聞こえてくる。
「このキックの音はどうやって出すのだろう」「こんなに沢山音が鳴っているのにスッキリしているのはなぜ」「このリバーブの処理は見事だ」などと、まるで今までずっと何も聞いていなかったかのように、音が情報となって届いてくる。

もちろん、文章もそうだ。noteを始めてから、今まで以上に敏感になった。人の文を読む時も美しい表現には更に感動し、恐ろしい表現にはより強く息を呑むようになった。
この時代、プロの文を見ることもアマチュアの文を見ることも同じくらい容易く、だからこそいい文章とは何なのか、を考えることがてきる。

反面、着色される色はいい色だけとは限らない。本当は見たくなかった、気にしたくなかった部分まで見えてしまう時も多々ある。
美しく見える写真でも、「あーこれはどうせこうやって編集しているだけだな」などとつまらない勘繰りをしてしまう。
動画を見ていても、「このカットは微妙だな」と思ってしまう自分がいることが悔しい。

そして、音に関してはあまりに綺麗に色がついたものを見た時に絶望する。自分が編集したものが途端に酷く聞こえてきて、世にある音楽がいかにすごいのかを知らされる。
以前のようにどちらも灰色のままなら気にならなかった自分の未熟さに打ちのめされてしまう。

文章に関しては、今まで以上に誤字が気になるようになってしまった。個人的には「誤字」という生命体は自然発生するもので、いくらチェックを重ねても無から誕生する。
そう思っているのに、人の誤字に敏感になる自分が嫌だ。気づかないままの方がいくらか幸せなのではないかと思う。

色の着き始めた世界は不可逆的で、何も気にしていなかったあの頃にはもう戻れない。
嫌でも気になってしまう色彩を、今はどうにか飼いならそうともがいている。

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