あらかじめ決められた分があるなら
時間がない。というとまるで睡眠時間も休みもまるっきりないように思われるがそんなことはない。ただ、創作活動に費やす時間がないのだ。
「これを作ろう」と思ったときにそれがどれくらいの時間を要するものなのかを計算するのはかなり難しい。このnoteだって急に書き始めてるからこれから何分かけて完成稿を上げることになるのかは見当もつかない。
これが例えば作曲とかになるとより大変である。文章よりも要素がたくさんあるし、純粋な技術力の面で思ったより時間がかかってしまうことがよくある。
実はまさに今もその只中にいて、休みではあるものの常にそのことが頭にあるために全くもって休んでいる気がしない。まあこれも悪くはないだろうとパソコンに向かってああでもないこうでもないと試行錯誤を積み重ねるが、降りてこないものは降りてこない。次に革命的なアイデアが降ってくるのがいつなのかが分からないままただひたすらトライアンドエラーを繰り返すのはそれなりにしんどい。
もしこれがただの作業であれば大体の時間は読めるのだが。例えばいついつまでにこういう書類を作ってください、なんていうのはその難易度に合わせてまあ大体1時間あれば終わるかな、とか寝る前にちょこっとやって2日かければそれなりのものはできるだろうとか予想ができる。
対してこの作曲とかいうものは結構強敵で、出口は見えている気がするのにどうしても気に入らなかったり、歌詞の最後の一節がどうしても出てこなかったりと全くもって時間が読めない。
そうすると僕はどうしたって凡人なので集中力が切れてしまう。降りてくるのを待つのはいいけど、いつまでも同じ心持ちでいられるわけがなくてこうやってnoteを書いたりしてしまう。
コーヒーを飲んでどうにか頭を働かせようとするけれど、すでに今日だけで一リットル以上は消費している。これ以上飲んだってたかがしれている。どうせ腹が痛くなって終わりだ。
noteだって究極を言えば創作のうちの一つで、もし人生の中で創作できる時間が決まっているとしたらこの時間を作曲に使ったようがよほどいいのかもしれないけど。いやあでもやっぱり使う脳みその部分が違うんですよ、多分。と言い訳をしながら息抜き程度に書くこの文章も意外と筆が乗ってきてしまってどうしていいのか分からないでいる。
息抜きのために書き始めた文章の終わり方を悩むなんていうのはあまりにも本末転倒も甚だしいところである。
さて、そろそろこの息抜きも幕を閉じてまた音符と向き合わなくてはいけない時間が来たのではないか。頑張るかあ。あらかじめ決められた創作の量のうちどれくらいをもう使い切っているのだろうかと訝りながら、結局は誰も教えてくれないのでとりあえず一度空になるまでもがいてみるよ。