誰も見ていない、と思いながらも。
「誰もあんたの服装なんて見ていないんだから、好きなものを着ればいい」それも、そうか。と、思ったりもする。
髭を剃るのが嫌いだ。嫌いというより、面倒くさい。むしろ「髭剃るの楽しい!」という人がいたら教えてほしい。初めて自分で髭を剃る中学生を除いて。
だからと言って伸ばしっぱなしにしてしまうのは良くない。良くないというか、世間的には髭は剃るべきだ。世界に自分しかいないとか、髭は伸ばした方が偉いみたいな社会だったら剃らない。
髭がキレイに生え揃っている人が羨ましい。究極「え、こういう感じにしてますが何か?」みたいな顔して髭を剃る億劫さから解放される。
いや、いくらキレイに髭が生えているからといって剃らなくていいという訳ではないか。きっとある程度は整えなくてはいけない。
そうでなくては電車内にこんなにヒゲ脱毛の広告があるはずがない。
しかし、たまにこうも思う。「誰も俺の髭なんて気にしてないんじゃないか?」、と。
三年くらい前、ホームステイをしていた時のルームメイトがある日の朝、こう聞いてきた。
「今日の俺、なんか違くない?」と、ニヤニヤしながら。
少なくとも僕には、彼は昨日と全く同じ人に見えたし、細胞レベルで少しずつ人は変わってる、みたいなテセウスの船的な話かと思いつつ、そんなもの分かるわけがないと肩をすくめた。
すると彼は少し悲しそうに"I shaved my beard..."と言った。僕は慌てて「えっと、ああ!髭ね!髭!いいじゃん似合ってるよ!」と言ったが、時すでに遅し。彼は「結構変わったと思ったんだけどな…」と落ち込んでしまった。
確かに、彼は出会った時から髭を生やしていた。ただ、それはさほど目立つ訳でもなかったというか、稀に見るような髪の毛程も長さがあるとか、特徴的に口髭だけ残しているとかではなかった。ある意味、とても自然だったのだ。
しかし、それは言い訳に過ぎない。僕は気づけなかった。正直、彼の髭にそんなに興味がなかったのだと思う。仕方ないだろ、と自分に言い聞かせた。
「ない」ものが「ある」に変わるのと、「ある」ものが「ない」に変わるのには違いはあるのだろうか。髭があろうがなかろうが、気付かれないかもしれないが、マナーがそうさせるなら仕方なく剃刀を顔に当てるしかない。
反面、人は自分の事を良く見ていたりもする。「ジョハリの窓」では「盲目の窓」というものもある。自分は知らず、他人だけが知っているものも少なからずある。
先日、久しぶりに会う後輩に高校時代の話をされた。二つ下にあたる彼とは特別仲が良かった訳ではないが、話す事も多くあった。
僕が高校を卒業してから今まで、殆ど会うこともなかったため、実際には七年近くぶりだった。
しかし、彼は僕の事を覚えていた。いや、覚えているのは当たり前なのだが、僕が思っている以上に彼は色々なことを記憶していた。僕が着けていた腕時計や着ていた服、喋っていた事まで、沢山の事を忘れていなかったのだ。
僕は面映いような、不思議な気持ちになっていた。自分が覚えていられた事は素直に嬉しかったが、同時に恥ずかしくもあった。
それは、今でも頻繁に会う友人に昔のことを語られるのとはまた違う、当時の自分しか知らない人の中で時が止まったまま存在している自分に出会うような、むず痒さがあった。
別に、忘れていて欲しかったわけでもない。むしろ彼の記憶のどこかに自分が存在しているという事は嬉しい事だろう。
しかし、やはりどこか恥ずかしく、急に古い自分と対面したような不思議な感覚であった。
そして、何となく考えを改めた。自分を見ている人も、いる。
仕方なく今日も髭剃りを手に取った。