なにが「ごめんなさい」なのだ。
「お菓子を売る外国人」に初めて遭遇した。
人づてやインターネットの情報から彼らの存在は知っていたが、実際に出会うのは初めてだった。
話しかけられた内容は概ね巷で噂されているものと同じで、「すみません」から始まり、「コロナで仕事がなく、お菓子を売っている」という旨の文が書かれた紙をそっと見せてくるというものだった。
「お菓子」は一袋500円。値段相応には見えない。
話しかけてきたのは20代前半くらいに見えるアジア系の女性だった。一言目は英語で、Excuse meと言っていた気がする。
中央線のある駅の、まさに駅前といったところに彼女は立っていた。
彼らが現れたのは最近のことではなく、少なくとも去年のうちから同じ手法でお菓子を売るアジア系外国人は全国的に見られている。
遭遇した人の言う特徴がほぼ一緒な事から、「組織的な詐欺ではないか?」との見方もある。たしかに、個人的に販売をしているにしてはやけに手際が良く、手法が全国的に一致しているというのは、残念だが怪しいと言わざるを得ない。
結論から言う。買わなかった。
元々、道端で話しかけてくる人の話はあまり聞かないようにしているというのもあるが、前述したように、既にそれが「組織的な詐欺の可能性がある」という事を知っていたので、長々と喋ることもなく断った。
しかし、僕は何度か来た道を振り返り、まだそこに彼女がいる事を確認しながら、迷いは晴れなかった。
買ってもよかったんじゃないか。という気持ちが、心の中を巡っていた。
詐欺だろうとなんだろうと、別に法外な値段を請求されているわけでもない。騙されているとしても、何に騙されているのだ。
そもそも、「組織的な詐欺」であったとしてたかが500円を、それも盗られた訳ではなく、一応の見返りをもらっている時点で、大したものではないのではないか。
袋の中身はなんだか知らないが、その原価が0円である事はないだろう。
それなら、あえて気持ちよく騙されれば良かったのではないかと、そう思いながら釈然としない気持ちをここに書いている。
「そんなこと言ったら、キリがないよ」と言われるかもしれない。たしかに、彼女に同情してお菓子を買ったとしても、困っている人なんて沢山いる。地球上の、いや、日本、東京で苦しんでいる人の事を全員助ける事なんてできないのだから、一々そんな事を考えても仕方ないという理屈は、分からないでもない。
別のところでは、「WFP 国連世界食糧計画」という団体に、寄付を募られた事もある。その時も、話だけ聞いて立ち去った。
駅前で活動をしていた男性は、「みんな帰ってから調べますって言ってやってくれないんですよ」と言っていた。
改札からホームへと向かいながら、僕は沢木耕太郎の「深夜特急」を思い出していた。
はっきりとは覚えていないが、彼は旅先で金を求めてくる子供や乞食に対し、はじめはキリがないからと一貫して誰にも渡さないと決めていたのだが、途中である事に気づく。
そんなものは、あげたければあげればいいし、そういう気持ちでなければ別にあげなくてもいい。それが自由だ、と。
きっと、そうなのだ。旅の途中でなくとも、たとえそれが詐欺であったとしても、好きにすればよかった。
そういえば、僕は彼女から離れる時に「ごめんなさい」と言った。何を謝る必要があったのか、と自分で気になりはじめた。
「買うことができなくてごめんなさい」なのか「あなたを信じることができなくてごめんなさい」なのか。
分からないまま、電車はホームを発った。一袋のお菓子を駅に残したまま。