上手く言葉にならないや
noteを始めてもうすぐ三年になるらしい。時の流れはいつだって思っているよりも少し早くて、ぼーっとしているうちに目の前を通り過ぎていく。
「ことば」について深く考えるようになったのはいつからだ?大して読書家でもないし、書くのだって精々週に一度のこのnoteくらいだ。
キチンとした契約書を書いてるわけでも、丁寧なメールを作っているわけでもない、ただ好きな様に文字を打ち込むだけの作業。
文章を仕事にしている人たちからしたらなんでもないただの駄文だ。
そもそも、果たして僕は「ことば」について本当に深く考えているのだろうか?歌詞を書く時もなんとなく誤魔化したり、noteの記事も語呂を優先して書き連ねたり。
たまに漢字の変換で迷ったり、その単語が持つ意味を考えたりもする。
しかし、それは単なる心地よさを求めているだけであって、「ことば」が持つ真の力に対して考えてるとは言えないのでは?と自分に問いかけている。
タイトルは『おとなりアイニー』というバンドの歌詞から。
1番のAメロ、ド頭の歌詞だ。彼女らをライブで観るたびに「ああ、いい歌詞だなぁ」と思う。でもきっと、それを「良い」と思っているのはメロディやリズムや他の楽器の音も含めて「良い」と思っているのだろう。
歌というものは、良い。なんの変哲もないただの文字の羅列が旋律を纏って美しく響く。
無論、折角の歌詞がメロディに潰されていることも多分にあるだろう。おそらく、僕が思っている以上に「何を言うか」よりも「いつ」「どこで」「誰が」「どうやって」言うのかの方が大事なのだ。
「お笑いは緊張と緩和」。よく聞く話だ。そこには間違いなく「ことば」の力があるが、それ以上にノンバーバルな「間」や「動き」がある。
"ハイコンテクスト"なお笑いは「ことば」だけでは成り立たない。客が持つ「共通認識」とそれの「裏切り」が存在している。
カメラを構えて「1+3は〜?」と言うボケが面白いのは僕らの中にある「写真を撮る時は「1+1は?」と言う」、その共通認識があるからだ。
「ハイコンテクスト」をあえてダブルクォーテーションマークにしたのは、僕自身が近頃「日本語はハイコンテクストだからお笑いもハイコンテクストだ」という論調に対して少し懐疑的だからだ。
たまにInstagramで観るアメリカのスタンダップコメディは明らかに彼らの文化だったり、「お約束」だったりを引用していて、それら知らないと全く面白さがわからないことがある。これがハイコンテクストでなかったらなんなのか?
もちろん、言語そのもの自体がコンテクストに対してどの程度解像度を重視しているのかということに対しては概ね異論はない。
日本語で「あいつ」とか「あの人」という人称代名詞が性別を区別していないのに対して英語ではいつも性別を気にしている。
大きくUターンして、歌詞の話に戻ろう。
僕は英詞が結構好きだ。「なぜ英詞が好きなのか?」と聞かれても「なんとなく」としか答えられないが、理由を見つけるとしたらそこに「具体性があるから」と言うだろう。
歌詞をメロディに乗っける時には、英語の方が少ない音節で多くの意味を伝えることができるので、より具体的に描写することができる。且つ、先ほども言った様に文脈に依存しないおかげでより明確に意味を見つけることができるのだ。
それ以外にも「純粋に響きが好き」「韻の分かりやすさ」「言語自体が持つリズム」など理由はあげられるが、きっと一番は「ちゃんと意味が分からないから」だと思う。
母語である日本語の歌詞は、時に「分かりすぎる」ことがある。歌詞がノイズになって、メロディに集中できないこともある。純粋に旋律を楽しみたいなら「ちょっと分からない」くらいが丁度いいのかもしれないとすら思っている。
じゃあ日本語が嫌いなのですか?と言われるとそうでもない。むしろ好きだ。
僕は短歌も好きだし、エッセイを読むのも好きだ。こんな風にnoteにわざわざ文章を書くぐらいなのだから、嫌いなわけがないだろう。
日常会話でもなるべく横文字を使わない様にしたりもしてる。これが意外と難しいのだ。
同時に、他の言語も好きだ。大学で少しだけフランス語を勉強したおかげで街中にあるオシャレな店の店名を読むことができる。
最近は韓ドラをよく観るせいで韓国語を勉強したいと思っていて、趣味程度に学んでいる。この間英語字幕しかない韓国ドラマのメイキングを観ている時は流石に頭がおかしくなったが。
「ことば」の持つ力とは何か、まだ答えは出ないでいる。それはきっと僕がまだ一度も言語と闘った事がないからだ。「本当にこの単語でいいのか?」「本当にこの表記が良いのか?」ちゃんと自信を持って「そうだ」と答えられるようになるまで向き合う時間を取りたいと思う。
それまではきっと上手く言葉にならないや。