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電柱すらも愛おしく思える街はいつしか姿を変えて僕に牙を剥く

中編小説に挑戦したのがもう一年半も前のことだと思うと恐ろしくなる。あの頃はまだなんとなく学生であった自分とその日の自分は地続きであると感じていたのに、日に日にその感覚は薄れていて、あとに残るものは目減りしていく。

あの小説は純粋な「京都の学生」への憧れから書き始めた。今更言ってもしょうがない、そんなことは知っているが、できることならあの都で学生時代を過ごしたかった。
そう言いながら、高校生であった自分は特にその道を目指すこともなく、またこの東京という街を出ることもなかった。

無論、「隣の芝だ」と言われることも分かっている。加えて「今からでも学生になることはできる」という声も間違っているとは思わない。
しかし、憧れは叶わぬものだからこそ憧れなのであって、たとえ薔薇色の学生生活などどこにも存在していないとしても、10代を終えるその時に京都という街に存在したかったのだ。

ただ、誤解してほしくないのは、たとえあの街への強い憧れがあるとして、それが私が東京の片隅で過ごした学生生活を否定することには繋がらないということだ。
例えるならパラレルワールドを覗いてみたいと思っているようなもので、友人と過ごしたあの日々には何の不満も後悔もない。

そもそも、こんなことを書こうと思い始めたのはとある記事を読んだからだ。詳細までは覚えていないが、記事はまさに京都という街について書かれていた。
巨大な学生街として存在する「京都」という街で、4年(もしくはそれ以上)だけ過ごす人々。よそ者でありながら学生という立場から受け入れられている存在。
まだ未熟な日々を過ごした後に去り、思い出と共に去っていく街。
そんな街を語る記事は、自分がまさに小説で書きたかったことかもしれないと思いまたこうして筆をとった。

しかし、改めて考えると確かに京都という街は特殊かもしれないが、私が過ごしたあの街だって負けてないのかもしれない。
そもそも学校がなければわざわざ訪れることもない東京の片隅には、あの頃の思い出が沢山転がっているのだ。

あの居酒屋に、あのスナックに、あの電柱に、全てのものに記憶がこびりついていて、簡単に剥がすことができなくなっている。
毎日通っていた道も、飽きるほど訪れた店も、未熟なままもがいていた自分自身の影をいまだに映し出していて、久しぶりに訪れては目を逸らしている。

だが、いつまでもそんな日々が続くわけでもない。
数年が経ってあの頃の道を歩いても、店は変わり、人は変わり、いつしかあの街の姿は自分の中だけにしかなくなってしまう。
その変化を見ることはまるで過ぎた年月をむきだしに見せつけられているようでふと怖くなる。
電柱すらも愛おしく思える街も、いつしか姿を変えて僕に牙を剥くのだった。

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