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創作はどこからでも始まる(が、それは知られなくて良い)

先日アップロードした記事『大寒波の夜に』がどうやらマガジン『雑記』の記念すべき100本目だったらしい。特に目標があったわけでもないが、100本と聞くとそれなりにすごいなと思う。
大体が1000文字前後で構成されているはずなので(多少の増減はあれど)、超単純計算で10万字。内容の良し悪しはあれど、数にしてみると驚く。自分の卒論の3倍以上じゃないか!

100本の記事を書いているその時々は特に数字も意識してなかったので、とにかくなんでもいいから書くことだけを目標にしていた。最初の頃はノートパソコンを開いてカタカタと打ち込んでいたが、それも段々と億劫になり今ではスマホで書き込んでいる。
そうなるともはや場所はどこでも良くなる。寝る前の布団でもいいし(まさに今その状況なのだが)、電車の中でもいい。フラッと入ったカフェで読書に飽きた時にポケットから取り出してインプットを即アウトプットに変換することも可能だ。

そしてこんな風に途中まで書いた下書きを突然引っ張り出して続きを書くこともできる。(今は帰りの電車の中)文明は最高だ。
ずっとツイッターを見るとか、インスタのリールを見るとかよりは(幾分か)有意義な時間の過ごし方かな?と思いながらフリックを続ける。

内容なんて本当にどうでもいいことばかりで、でも多分世の中の大半のことなんてどうでもいいことなんだからそれで問題ないよねと思ったりもして。
何年か後に読み返すことができる文章が卒論の何倍もあると思えばそれはだいぶ、いや、かなりいいことなんじゃないかなあと思う。

と、同時に、やっぱりこうしてインターネットの海に投げ込むだけの文章の虚しさも感じる。去年、アルバムをちゃんとCDにしてそれを強く感じた。
「形に残す」って、言葉では簡単だけど実際やると意外とタイヘン。だけどやっぱり手元に物理的なものがあることの安心感というか、所謂『サ終』のない存在を尊く思う。
この散文たちもいつか物理的なものになったらいいな、と今は思っているけど、できるかなあ…。

でも、やっぱりこんな風に気軽に書けることはいいことだ。自分だけしか読まない日記ではこうはいかなかっただろう。
たとえそれがちゃんと紙の本だとしても、形になる前の文章自体が完成しなさそうだ。

こうして書き連ねる文。色んな場所で、色んな時間で、その時その時を切り取りながら、でもまるでそれらは一つの物語のように。場所も時間も読者の皆さんには知られなくてよくて、ただ、このどうでもいい文章は多分おそらくもう少しだけ続いていく。

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