的外れのメランコリー
日々、沢山の情報に晒されているせいで知らないうちに取捨選択をしている。そのクセ、後になって思い出しては首を傾げ、モヤモヤとしたやりどころの無い気持ちを今日もこうして言葉にして誤魔化す。
「アドバイス」を頂いた。怒られたわけじゃないけど、多分彼にとって気に入らなかったんだろうな、と思った。
彼の言うことは確かに正しいように聞こえたがその実的外れのようでもあって、溜飲を下げられなかった。
「平和主義者」というテイのいい言葉で濁しているが、要するに争うのがめんどくさい自分は話半分で聞いていて、簡潔に言えばかなりテキトーに返事をしてやりすごした。
後になってなんだか釈然としなくて、アレコレと言い訳のような、あるいは純粋な苛立ちからくる言葉が頭の中に浮かんだ。
そもそも、彼は全容を見ていた訳でもないのに何を偉そうに(まあ実際偉いのだけれど)語っているのだ。前後の文脈も、実際の空気感も知らずに彼の「コダワリ」だけでそんなことを言われたらたまったものではない。
加えて、なんだか彼の口調からは「貴方はこうだから、こうしたほうがいい」という様な雰囲気が滲み出ていて、それが余計に苛立ちを加速された。
20数年生きてきて、自分の事も少しは分かるようになった気がするが、どうやら僕は誰かに自分を決めつけられることが余程嫌いらしい。そういったことを言われるとひっそりと眉を顰めている。
それはおそらく自分が思っている自分と、他人から見た自分との乖離が原因となっていて、所謂「盲目の窓」へのギャップが大きすぎるのだ。
しかしなんとも単純なのだが、その苛立ちは必要以上に褒められた時には起こらない。
自分が思っている以上に評価された時にはへらへらしていて、心の中では「まあね」と思っていたりするから愚かだ。
自意識と人からの評価の乖離という面ではアドバイスも賞賛も共通しているはずなのに、褒められた時だけ調子に乗るのは狡い。
よく考えれば、この文章だって狡い。そんなに気になるのであれば本人に直接言えばいいのに、「後から蒸し返して反論するのはなんかダサい」というその方が余程ダサい理由でこんなところに書いている。
もしかするとこの苛立ちの正体はアドバイスに対してではなく、こうやって言葉にしたくなったり、自分の中だけでも筋を通したいと思ってしまう浅ましい自分に対してなのではないか。
それに加えて咄嗟に言い返すことのできない自分の頭の回転の遅さと、上手く言葉を紡げない事へ対しても。
本当に的外れだったのは僕の方だ。危うく自分への苛立ちを人に向けるような青さを表に出すところだった。
ぐっと飲み込んで、的外れのメランコリーを文字にして誤魔化そう。これで気がすむうちは、きっと、まだマシだ。