キソ

基礎がない。土台がない。独学ではじめたギターは散々遠回りした挙句着地点を見失っている。
楽譜は書けない読めない耳もよくない。1000円くらいの教則本で見た適当な知識を無理矢理当てはめてやっている。

これは完全に自論で根拠も何もないので話半分かそれ以下で聞いて欲しいのだが、「音楽理論」と「文法」は似ている気がする。
「このコードの上でこの音を弾けばいいですよ」というのは、「この場合の動詞の活用はこうですよ」みたいなものの気がする。
どちらも、長くやっていれば、或いは生まれた時から染み付いていれば感覚で分かる事なのかもしれない。しかし、年をとった僕らは正解に辿り着くまでには近道をしなくてはどうしようもない。その地図が理論なのだろう。

「一万時間の法則」というものがあるらしい。何事も、一万時間かければその道のプロ並みにはなれる、という法則である。無論、芸術に関してはそれはあくまでも技術的な一面でしかなく、必ずしも大成するとは限らないらしいのだが。
一万時間。一日一時間で27年。一日十時間やっても3年。長い道のりである。
それも、おそらくただがむしゃらにやり続けても意味はないだろう。一日十時間、ただ手癖を弾き続けても意味はない。もう相当な時間を費やしているはずなのに、向上しようと思っていないから、手書きの文字は上手くならない。

限られた時間の中で、少しでも正解に近づくために、先人たちの知恵を借りている。
外国語だって「究極喋らなきゃいけなくなればできる」と思うが、それには感覚が追いつくまでの時間を要する。たとえば今突然フランスに飛ばされたとして、何も勉強せずにフランス語を喋る事ができるようになるには途方もない時間が必要になるだろう。
それに、自分が日本語、つまり母国語を習得した時のように、親となる人、「伝わらなくても語りかけ続けてくれる人」はいないだろう。お互いにコミュニケーションを取ることができない時間はもどかしく、人間関係を築くことは難しくなる。
だから、近道となる文法を勉強して、地図に沿って進む。

「音楽理論を勉強したら感覚が薄れてしまうかもしれない」と思っていた時期もある。「自分が良ければそれでいいんで」と。
しかし、天才でもない僕が思いつくようなコード進行やメロディーはとっくに理論に盛り込まれていて、簡単に説明されてしまう。それなら、選択肢は多い方がいい。先人たちが長い間かけて辿り着いたものに本を読むことで近づくことができるなら僕は進んで理論書を買おうと思っている。
「楽譜なんて読めなくたって」とも思うが、ある種の共通言語として使用されているそれを理解する事が結果的に「かっこいい音」に昇華されるならこれほど良い事はない。

基礎がない、基礎がないといいつつも、今更になってどうにかしようとしている。ウワモノは準備ができているはずだから、あとは土台なのだろうか。

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