続・つづく。
自分の人生が映画になるとしたら、なんて考えてみたりする。2時間半の映画だとして、今はどのあたりだろうか。
人生はよく時計に例えられたりする。「若い君たちはまだ朝なのだから」と言われたりするが、どうもピンとこない。
朝だろうが夜だろうが、寝てる日は寝てるし、大体午前中は脳みそが停止している僕にとって朝は恨みこそすれ嬉しいものではない。
それに、歳を取れば取るほど時間は早く進むという説もある。人生の時計の針は、一定には進まないのだ。
考えれば映画もそうだ。数ヶ月、いや、数年の時ですらテロップだけの数秒で過ぎる事がある。逆に、急にスローモーションになったり、時間を逆行したり、映画の中で人は自由だ。
現実世界の時と映画の中の時は、同じ様でいて、違っていて、でもやっぱり同じな気もする。
ふと、思う事がある。映画が終わって、僕らは現実に帰る。
エンドロールが消えて、辺りが明るくなって、一つ息を吐く。数秒から数十秒、何も言わず、何もせずにそこにいる。
そしてようやく席を立って、劇場の扉ーもとい現実への扉をくぐる。
先ほどまで居た非現実の世界は、非現実のまま、一応の終わりを迎えて霧散してしまう。
果たして、彼ら登場人物の日々は、続くのだろうか。
もちろん、現実的な事を言えば、続編が作られれば彼らの日々は続くし、そうならなければそこで終わりだ。
しかし、分かっていても、その先に続く何かを、時に想像してしまう。
僕らも、映画館を出て、急に現実に引き戻されて、ついさっきいた世界の名残を見つけようとしながらしかし、日々は続くのだ。
見飽きたコンビニエンスストア、ゴミの溜まった駐車場、点滅する信号。
現実では、意味のないように見えるものは、映画と違って本当に意味がない。
意味がなくても、続くのだ。
ただ、日々は、つづく、つづく、つづく。
自分が映画になったとしたら、どこで終わりを迎えるのだろうか。その先に続くのは、映画になんかならない程の退屈な日々か。
エンドロールが終わっても、僕らの日々はつづく。