第十七章 順徳院の独白
真野宮から、坂道を上りきったところに小高い丘があって、木々がうっそうと生い茂っている。笹などかき分け、さらにその先に進むと、森に囲まれたような窪地があった。日中でもほの暗い。静かなだけが取り柄の場所。わたしは、ここに粗末な庵を編んだ。
京からの便りに、次の天皇は、土御門院の皇子、邦仁王に決まったと書かれてあった。鎌倉方の強引な決定だと、九条道家はいう。希望をもった自分が疎ましかった。側に使える者たちの気落ちする姿、ため息、涙、そんなものを見たくない。わたしの子どもということで、退けられた忠成が、哀れだった。ここで詠んだ和歌集なども送ったが、その心を慰めることはできただろうか。
周りの者どもが、異を唱えても、しばらくはここで仏門の修行をしようと思う。父宮は、隠岐に配流される前に、出家して、法皇になられた。わたしも仏の弟子になって、余生を過ごしたい。
朝晩の食事は、側近の者どもが交代で届けにくる。歌を詠んでも、琵琶を弾いても、心は静まらない。あの四季を楽しむ生活はどこにいってしまったのだ。雨の日は、雫が落ちてくるような粗末な庵で、心だけは帝のように生きようと思う。
鎌倉方は、後鳥羽院とわたしを配流し、その系統をすべて、皇位から遠ざけようとした。だが、守貞親王(後高倉院)の皇子たちは、みな早死にし、世の人は、父宮が怨霊となり、祟ったのだと怖れた。鎌倉方でも、後鳥羽院の崩御のあと、有力御家人である三浦義村、そして、北条時房が相次いで亡くなっている。
今回の天皇となる邦仁王は、後鳥羽院の孫、父宮の系統である。鎌倉方が口惜しく思っても、ほかに策がないのだ。父宮にこのことを報告し、祈りを捧げる。
九月九日は、重陽の節句である。宮中では、「重陽の節会(ちょうようのせちえ)」が開かれる。不老長寿を願い、菊にまつわる行事が執り行われる。菊の酒を飲み、長寿、無病息災を祈る。この日に死することは、なにか意味があるのかもしれない。
すべてはうたかたなのだから、そして、時間というものは、重ねられた書物のようなものだから、わたしは、死ぬ時期を自分で選びたい。人から命ぜられるのではなく、自分が決める。わたしが亡くなれば、みなを解放してやれる。父宮のときと同じように、側近の者どもは、京に戻ったらいいのだ。わたしの一族が、子どもたちが安寧に過ごせるよう、そして、このような理不尽な目に二度と合わぬよう、祈りながら死のうと思う。
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