佐渡ものがたりを書く、前書きのようなもの  その3

佐渡の人たちは、神社との関わりが強い。島内を歩いていると気がつくが、玄関前の門にしめ縄がかかっているのが、宮司の御宅だ。10月に稲の刈り取りが終わると、氏子たちが集まって、新年に向けて、神社のしめ縄作りをする。

この島は、米作りが主な産業だった。今でこそ、いちご栽培や、おけさ柿、リンゴ作りなど盛んだが、江戸時代は、米が貴重品で高価で取引された。能舞台の調査をしていたとき、どんな山の中でも、地図の上で水田のマークがあるところに、能舞台があった。奉納は、田植えの後、または、稲刈りの前に、豊作祈願を神に願うものというのが、私の出したひとつの推論だった。

能楽がいちばん盛んな、真野町の町役場で、能舞台の周りの地図を求めたことがある。土地台帳だと、個人情報になるので、簡単に見せてもらえないが、能舞台の調査で、これまで調べたリストなどを見せると、親切に対応してくれた。調査には必要だからと、土地台帳のコピーも取ってくれたのである。このころ、佐渡市が誕生する前は、各町村で、町史を作っていた。佐和田町町史編纂室は、菊池先生が担当。格調高い文章は、岩波かと思うくらいすばらしい。真野町にも町史があって、それも求める。

能楽に関する記事、記録を探して過ごす。いつしか、この膨大な資料をまとめあげなければいけないと思うようになった。だが、研究者でもない一個人がまとめたとして、誰が読んでくれるのだろうか。能舞台を調べていくと、必ず順徳院にたどり着く。

佐渡の能楽に貢献した野村蘭作先生の奥様はよくおっしゃっていた。「生前から、主人が、真野は特別なところだからと、いっていたのよ。」
その時は、わからなかったのだが、今なら、わかる。真野には順徳院の真野御陵があるのだ。

佐渡の能楽は、なぜ、続いているのか。明治維新で、大名や将軍のお抱えだった能楽師が、佐渡に渡っている。第二次世界大戦のときは、東京から能楽師が疎開していた。佐渡は戦火によって、能楽は、むしろ、盛んになったのである。

真野の真野御陵を取り囲むように作られている能舞台。すべて、神社の境内に作られている。その謎を知りたいと思って、順徳院の生涯を調べたのだが、記述が極めて少ない。その父、後鳥羽院については、丸谷才一も書いているのに、順徳院については、ないのだ。

藤原定家が書いた明月記の明月記研究 7号(2002年12月): 記録と文学に順徳院の書いた「御製歌少々」が載っていて、こちらは父、後鳥羽院が隠岐で崩御されたことを知らされた思いを一年以上に渡って、和歌を書き、記しているものである。ほしいと思ったら、すでに2004年には手に入れていた。

ほしいと思うものは、すべて揃っていて、あとは書くしかないと思い、数年の間、どうかいたらいいのか、悩んだ。習作を佐渡の方に見せたことがある。なぜか、自分が納得できないので、続かない。

やがて、これは順徳院のものがたりを書くしかないと、腹をくくる。天皇について記すのは、恐れ多いことなのだが、今年で、佐渡に奉納能を始めて15年になる。それも順徳院が御隠れになった九月十四日の一週間前。供養になっていたのだと気づいた。

書き始めて、行き詰まったとき、スゴ本オフで知り合った方に相談してみた。これは、たまたま、わたしが指名されて書き始めたもの。期日までに終えられない時は、別の人に指名することになる、といわれて、はっとした。この物語も締め切りがあるのだ。わたしは、とっさに4月中に書き終えますと宣言した。そして、書き続けているうちに、あることに気がする。4月中というのは、平成の終わりである。平成に始まった物語は、平成に完結しないといけないのだ。

それからは、他の仕事はすべて止めて、書き続けた。まるで、物語の中の人物になったかのように、筆は進んだ。書かせてもらっているという気がしてならない。

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