第五章 花井と本多の会話

「本多くん、君は若いね、ぼくは疲れた。今日はここまでにしておこう。」
花井はそういうと、腰に下げた手拭いを取り出して、汗をぬぐった。二人は大きな握り飯と水筒、そしてノートを入れたリュックを背負って、今日も一日、佐渡の能舞台を調べて、山の中を歩いた。

「花井さん、先週、東京で法事があって、久しぶりに上野に出かけました。上野の文化会館では、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」を聴きました。久しぶりに聴く、生の音楽はすばらしかった。時間があったので、国立博物館の特別展示も見てきました。森鴎外が帝国博物館の図書頭をしていたときに作ったという目録をみました。あの忙しい方が、丁寧にそんな仕事までしていたのです。」
本多は、上気した頬をさらに赤くして話しだした。

「そこに展示してあったのが、『諸陵図記』という歴代天皇の墓の載った絵地図です。全三巻のうち、第二巻が展示されていて、開かれたページがちょうど佐渡でした。真野御陵を中心にして、知っている村名が並んでいました。花井さんが、能舞台は順徳さんと関係があるのでは、と以前言われていたのを思い出して、写筆してきました。」
本多は、一枚の紙を差し出した。

『佐渡国羽茂郡順徳院陵図 江戸時代』

花井は、その紙をじっくりと眺めて、答える。
「真野は特別な場所だからなあ。今では、順徳さんは、後鳥羽さんといっしょに大原にある御陵に祭られている。だが、あの場所は、真野御陵といって、いまも宮内庁が管轄しているのだ。ただの火葬塚だというのに大げさすぎるだろう。」

「なにか、あるのでしょうね。」
本多は、その紙を返してもらい、カバンにしまった。

「佐渡の能楽がもっとも盛んになるのは江戸から明治かけてだ。組み立て式の能舞台まで数えると、島内に四百くらいあったといわれている。みんななぜ、熱狂的に能を習って、舞っていたのだろうか。」
花井の話は、始まるとなかなか終わらない。

「佐渡は江戸時代、天領でした。人口約十万人に対して、武士階級は四百人くらい。佐渡金山を管理する佐渡奉行の役人たちです。一方、村々の自治は、名主、百姓代、組頭の村役人が仕切っていました。二百年近く統制されることなく、芸能を楽しむことができたのです。米価が高かったのもひとつの影響力です。米作りで暮らせたから、冬になると、出稼ぎにいくのではなく、能楽の稽古をするのです。佐渡は今では新潟県に属していますが、国仲平野は雪も少なく、南の小泊(こどまり)や羽茂(はもち)は、キーウイやブドウなで果物がとれるくらい暖かい。そして今でも能楽が盛んところです。もうひとつ、加茂湖のまわりの潟上(かたがみ)も豊かな地域です。米が取れて、魚も取れる。収入も二倍です。ここにも有名な能楽師(シテ方)が住んでいます。」
本多は、最近訪ねた潟上のシテ方の玄関に、源氏物語、謡曲集が並んでいるのを思い出した。

花井は、立ち上がって、リックを背負いなおした。山を降りる準備ができた。
「もうすぐ日が暮れる。家に戻ろう。続きはぼくの家でゆっくりと聞こうじゃないか。」

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