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もうひとつの物語り|Another Story

時々、訪れたお客さまが言葉(Another Story)を残してくれることがある。わたしとは異なる世界を生きるひとたちが織りなす物語り。それはまるで電波の途絶えた山道で、ふいにラジオから流れ出したメロディーが心を掴んで離さないような、偶然と必然が瞬時に綯交ぜになる、あの喜びにどこか似ている。

毎日、自由気ままに過ごしているのですが、そのくせ、どこかに逃亡したいなあと、考えることがときどきあります。あなたは優しくて愛情深い男の人だし、ずっと本を読んでいても怒らない。過不足なく、すっかり満ち足りた日々のなかでは、少女だったときのような焦りやもどかしさを、感じることなんてもうほとんどないのですが。ただ、それでも、どこか遠くに行きたいという願望だけが、大人になっても消えずにいて、私にとって、それは薄甘い、なんだかとてもいいもののように見えるのです。洗いたてのタオルや、一つ残った薄荷の飴や、だしたばかりの石鹸や、たとえば、真新しいノートをひらいて、なにもかもを白紙にもどす、あの完璧な瞬間みたいに。

だけど、電車に乗って家を出たのは、結局、逃げ出したいというより、ただ確かめたかったからなのかもしれません。勇ましい決意でここまで来たのに、私はまるで家出少女みたいに心細い気持ちだ。

もちろん、選んだホテルは清潔だし、アーティスティックな試みが新鮮で、私の好みよりは少しシンプルだとしても、ここは本当に素敵な場所です。部屋には“チェックメイト”という名前が付いていて、くすんだピンクのバスルームがすごく可愛いの。しろくまのパジャマも、いつも使っているリップクリームも、苺のチョコレートも、優しい友達も、好きなものは全部そばに置いています。夜遅くまでおしゃべりして、一緒にスターバックスを飲んで、昨日は本当に楽しい夜だった。

だから、今、私が戸惑っているとしたら、それは家に残してきたあなたが、その「不在」という形で、はっきりとここにいることに対してだとおもうのです。すごく不思議なことだけど、ひんやりしたままベッドや、慌ただしくない朝の、ぽっかりと穴のあいた時間を含めて、あなたはいないときのほうが、ずっと存在感があるような気がする。わかってくれますか?
私はもう大人だから、もしもそうしたいと思うなら、このまま本当に逃げることもできるし、今すぐに家に帰ることもできます。それでも一緒にいるのは、結婚するからじゃなくて、そこが私の一番好きな場所だからなんだとおもうの。そんなこと、今さら確かめるまでもないって、あなたは笑うもしれませんが。でも、少しだけ遠いこの街にきて、ふいうちのように家に帰りたいなあとおもうとき、私はなんだか笑っちゃうくらい幸せな気持ちでした。あなたが、毎日家に帰って来て、ご飯を食べたり、お昼寝したり、シャワーを浴びたりすること。父さんが家にいるのが当たり前だったみたいに、それはいつか、自分に向けられた愛情を、信じる強さに変わるような気がしたからです。

今日は20時過ぎに駅につくとおもいます。家に帰ったら、いつもみたいにハーゲンダッツを食べて、それから一緒に婚姻届の続きを書こうね。昨日、私を見送ったときの、あなたのまっすぐな視線を、何度も懐かしく思い出しています。

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先日は素敵な時間をありがとうございました。部屋にあった「親愛なるモーガン・ミラーへ」という手紙を読み、たとえばホテルという箱のなかで、私が私の物語を広げたら、どんな風になるだろう?と思って、私もそこにいる自分のことを書いてみることにしました。

投稿ではあまり触れていませんが、宿泊した夜は本当に楽しく、友人とおおいに盛り上がり、紅茶を何杯もいただきながら、可愛く綺麗な部屋を満喫しました。「入口の絵画は恋に落ちる瞬間を見せている。つまりは、どちらかが相手の心をチェックメイトした瞬間である」という言葉が、まだ忘れられずにいます。また、いつか違う部屋に泊まりにいけたら嬉しいです。

文:HARUKA

・・・素敵な物語りをありがとう。またお会いできる日を楽しみにしています。

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