メキシコ(シティ)の女性について
メキシコシティで半年間暮らして、いろんなメキシコ人女性と友達になったり知り合ったりすることができたけれど、共通しているなと思ったのは、多くの人が自信を持っていて生き生きとしているということだ。他の人の目線をあまり気にしていないように思えたし、いろんな生き方を模索しているように見えた。それは、様々な生き方を社会が認めているということも意味しているようにも思えた。そのため、生きやすさは男性にも共通して言えるだろう。それはなぜなのか、考えてみたい。このことを一人で考えるのは限界があったので、他の人から聞いた話や本で学んだことも参考に書いてみたい。
ただし、住んでいたのはメキシコシティだったから、日本でいう東京のように、都市で女性を観察した結果を多く言及することについて、断っておきたい(他の都市や地方では事情が異なる場合もあると思われる)。また、ここで述べることにもちろん正しさはないし、例外もたくさんあるし、私の主観であることを断っておきたい(もっと知りたいと思った方はぜひ現地に行ってみたり、メキシコ滞在者に話を聞いたりしてほしい)。あと、メキシコシティだけでも、本当にいろんな国籍のいろんなバックグラウンドのある人たちがいたから、「メキシコ人は○○」で語れない部分もたくさんあるだろう。
服装、メイク、髪型について
まず、メキシコの女性を観察していて、日本人、あるいはアジア系の人たちと明らかに異なるなと思ったのは、服装やメイク、髪型などの見た目である。肌の露出が多いこと、メイクをしている人はアイラインや口紅が濃いこと、セクシー系のファッションが多いこと、いろんな髪色の人が多いこと(もともとは黒髪の人が多いが、たくさんの人が染めている)、ズボンはほとんどスキニーで、お尻を強調していることなどが挙げられる(そもそもスカートを履いている人がそこまで多くなかったと思う。履いている人は、ミニスカートが多かった)。全体の印象でいえば、かっこいい、セクシーであるといえる。日本やアジアの人たちが、かわいい、幼い、カジュアルな感じの格好をする人が多いのとは対照的であった。ショッピングモールで服を見ても、体のラインをきれいに見せるようなデザインが多かったから(ブランドはZARA, MANGO, Bershka, PULL&BEAR, VANS, FOREVER21, H&Mなどスペイン、アメリカの店が多かった)、何回も見ていると影響されて、そういうデザインがかっこいいと思うようになった。それらのファッションはヨーロッパやアメリカの影響なのだろうか。もちろんそれもあるだろうが、思想や文化の面で、各国からいろんな刺激を受けているメキシコを考えると、ファッションにもそれが表れていて、独自のスタイルがあるのではないかと考えてしまう。私が勝手に「メキシコらしいな」と感じたのは、女性の髪形で、全ての髪を後ろでまとめるお団子スタイルや、根元からきつくパーマをかけるスタイルが、30~50代の人に多く見られ、印象的だった。
(※ヨーロッパやアメリカのファッションを、実際に暮らして観察したわけではないから、「これがメキシコっぽい」というのは比較して言っているわけではなく、イメージであり、根拠がなく申し訳ない。海外に住むの自体初めてだったから、ただただ日本との違いに驚いたということしか言えない)。
※絵が雑ですみません。
共通するスタイルはあっても、目指すものは多種多様
しかし、濃い化粧をしていた人が見られたのと反対に、スッピンの人や、そもそもファッションに興味がなさそうな人が多かったのも印象的だった。あるいは、男の子っぽい恰好とか、頭の半分半分で髪色が違うちょっと個性派スタイルとか、独自のオシャレを追及している人もたくさん見かけた。仕事が忙しくて余裕がない人ももちろんいるだろうが、でも気にする人は、バスでも電車でも合間を縫ってしていたから、しない人は、そもそも興味がない場合もあるだろう。それは、化粧やファッションに興味がある=モテる、魅力があるという考えを持っていない人も多いということなのだろう。それよりも、「いかに人と異なるか」が大事で、個性や内面を追求している人が多いと思った。そこが、日本社会にある認識と違うところで、いいなあ、かっこいいなと思うところだった。
もう一つ衝撃だったのは、脱毛していない人が頻繁に見かけられたことだ。これも、海外ではそんなに珍しいことではないのかもしれないが、電車やバスで周囲を見渡すと、大体みんな毛を生やしていた。また、最近のメキシコのイラストレーターさんなどのinstagramを覗くと、女性に毛が生えているのを肯定するようなイラストを敢えて、大胆に描いていた(日本のそういう人を知らないだけかもしれないが、メキシコで、フェミニズム的な絵を描いているイラストレーターさんが多くて驚いた。気になる方は@pam.medinabさんのイラストを見てほしい)。日本では、女性に毛が生えていること=罪と思えるくらい脱毛サロンが増えていて、毎日嫌というくらいその広告を目にし、行かないと軽蔑されるかな、とか不安に思っていたくらいだったから、とにかく新鮮だった。経済発展が進んで、物があふれて、供給過剰になると人々の物への需要がなくなって、そういう美容系サロンが増えていくのかもしれないけど、生まれながらにあるものを否定する考え方が強要されるのは、たまにしんどかったりする。だから、自分の身体に関して自分で決められる自由があるのはいいな、と思った(妊娠、出産に関しては自由がないという話がある。それについては後ほど述べるかもしれない)。
あとは、体型。メキシコ人はトウモロコシが主食だから、そもそも体型が全く異なるんだと、長年メキシコに住んでいる日本人の方から聞いた。だからお尻が大きくて、割とどっしりした体型になり、そういう方が魅力だと思われるそうだ。たしかに、ふくよかな人が多かったし、体型についてもそれほど気にされていないように思った。なにせタコスがジャンキーだし、外に出れば手作りのアイスクリーム屋さんやタコス屋さん、タマレス(トウモロコシの練り物)屋さんにクレープ屋さんに、、とおいしいものだらけだから、食べないほうが難しかった。体型維持よりも、日々おいしいものを食べるほうが幸せだったし、カロリーとか栄養面とかそれほど気にしないメキシコ人たちも好きだった。一応「痩せているのは理想」という社会認識はあるみたいだったけど、そんなの気にならないくらい、体型は様々だったから、食べることへの罪悪感はそれほどなくなった。その料理も、塩分や糖分が相当入っていたので、感覚もマヒして、一々気にしていられなくなった部分もある。でも、圧倒的にパン、ケーキ、甘い飲み物や、タコス、ゆでウモロコシ、トルタなどジャンキーなものを摂取する機会が増えて、日々幸せだった。
SNSとの関わり方と個人主義について
次は、SNSとのかかわりについてだ。メキシコでは、SNSで自画像や自分の意見を投稿する女性が、日本より多いと思った(個人差はあるし、それによる問題もたくさんあるとは思うが)。日常のちょっとしたことから政治的意見まで、自由に頻繁に発信している友達が、少し考えただけでも5,6人は思い浮かぶ。日本だと、あまりにもたくさんの投稿や自画像、政治的意見の発信は驚かれるし、まずは批判の声を気にして、しない人が多い。しかし、メキシコで多くの女性が自由に感情や意見を発信しているのを見ると、個人が強いか、あるいは周りが寛容であるか、を想像せずにはいられない。それはどっちもだと思う。その理由は、個人主義が関係しているのではないだろうか、と思うようになった。
メキシコに20年以上住んでいる地理学の教授に話を聞く機会があったとき、アメリカ大陸の人たちは、国籍が違えどヨーロッパやアフリカなど、違う大陸から移民してきた人たちで構成されているから、「新しいものを求める、創造する」という点では共通しており、個々の個性が強い、と言っていた。そのため、集団行動をしようとすると、それぞれがバラバラに考え行動するので、意見がぶつかり、物事一つ決めるにも非常に時間がかかるという。しかし、個々の主張や想像力が豊かだから、個人で活動できる芸術や文化の創造は強いと言っていた。それを聞いて、納得した部分は大いにある。
それに対して、日本をはじめとする東アジアはどうか。最近読んだ、韓国のキム・スヒョンさんの『私は私のままで生きることにした』(ワニブックス)を参考にすると、日本や韓国が集団社会であることがわかる。彼女は、
「西洋社会では、知識を教えることと同じぐらい、自尊心を育てることが、教育の重要な目標になっている。これに対して韓国社会は、一人一人の個性よりも、集団の調和を重んじ、人間社会を優先する社会。だから、小学校に入るとすぐに、『正しい生活』という科目を学び、人との付き合い方を真っ先に身につける」。(p414、415、Kindle版)
と述べている。個性や自尊心を大切にする考え方は西洋から来ていることがわかる。その考え方がアメリカ大陸の場合、先に述べたように、もっと強くなるのではないかと思う。そして、韓国の社会は日本と同じように集団の調和を尊重する、集団主義の考え方があることが読み取れる。SNSで発信した内容に一々批判したくなる風潮も、「こうあるべき」という理想の女性像が社会から押し付けられていて、そこにあてはまらない人は「悪」と考えてしまうからだと思う。自分がその社会から求められた女性像に合わせようと自分の個性を隠してしまうと、余計にストレスがたまる。そうすると、多様性は生まれず、人々はますます周りに合わせて生きていかなければならない。
一方で個性を大切にするという考え方は、人々の生きやすさに直結し、連帯のしやすさにつながると思う。ラテンアメリカで社会運動が多いのも、個性や多様性が認められているからだと考える。露出の多い女性を批判する、あるいはファッションや化粧に興味のない人を差別する、といったことが起こっては、異なる者同士一生理解できずに終わってしまう。見た目は違うけど、こういう考え方は分かり合えるね、とか、自信を持っていて素敵だね、とか言い合えるような寛容さが必要だと思う。女性同士、それを達成するのは特に難しいと思うけれど、メキシコの人を見習って達成できたらな、と強く感じた。そのために、やはり「社会の求める女性像」ではなく「自分が求める女性像」や「人間像」を日々考えて実践することが大切だと思った。
まとめ
メキシコシティで約半年生活してみて、私の中での女性のイメージや生き方の幅は、かなり広がった。「こうじゃなくてもいいんだ」「こういう人もいるんだ」と毎日驚きの連続で、それと並行して「私ももっとこうしてみよう」「これまで日本社会の理想の女性像に抑圧されていた部分があったとしたら、少し外れてみよう」などと、模索するようになった。その過程で、今まで理解できなかったタイプの女性の気持ちも、「こういうことか」と少しわかる瞬間も増えてきた。もちろん、全員を理解することは難しいけれど、いろんな人を知り、自分も自分を知っていく中で、付き合い方を学んでいきたいと思った。
この回では女性について焦点を当てて意見を述べたが、どんな人に関しても同じことが言えるような気がする。「社会から押し付けられた○○像」があるのだとすれば、それとは違う生き方やあり方を知り、模索する中でそれぞれの生きやすさが見つかっていき、それが他人への理解や寛容性につながっていくと思う。それが見つけづらい場合、海外の人々の考え方や生き方を知ると幾分か気持ちが楽になると感じた。だから、メキシコに限らず、いろんな社会のいろんな価値観や生き方についてもっと目を向けたい。