アパートメント紀行(27)
エクス・アン・プロヴァンス #5
授業の合間、カフェでマフィンを食べてコーヒーを飲むのが習慣となり、誰よりも早く時計を見て授業の終わりを先生に告げる役目のナダルが、ベルが鳴るより早く、さ、行くよ、と今日も私たちを先導する。
カフェの奥に、時々見かけるアジア人の女の子がいたので声をかけてみると、彼女は台湾人だった。日本が大好きで、箱根や銀座や北海道へよく行くという彼女に、じゃあ今度日本へ来るときは連絡してねというと、うん、台湾へも来てね、案内するわ、とお互いに連絡先を交換してからみんなのところへ戻ると、みんなが、あなたと同じ国の子ではないわよね、という。
エマが、あなたと話すようになってから、以前は見分けがつかなかったアジア人の違いが分かるようになってきたといい、私も、俺も、と全員が口を揃える。私もだんだんヨーロッパ人の違いがわかってきたところだ。
ところでエクスの暑さはどんどんヒートアップし、週末にマルセイユまで行ってビーチで泳いできたという若いカミラを除き、年配組は、外を歩くのも億劫になってきている。
学校が終わってランチの時間になると、私たちは冷房の効きのいいレストランへ入る。初めの頃は、木陰のテラス席でお洒落なランチを決め込んでいたけれど、近頃は木陰でも相当に暑いので、誰かが見つけてきた尋常ではないくらい冷房の効いた奥まったレストランやカフェへ直行している。
エマとリーナと私はランチのあと、バーゲン中のブティックで、それぞれの服を選び合う。二人が、あなたの黒髪と黒い瞳にはこっちのビビッドな色の方が似合うわというので、いい切られるままに着たこともないような色の服を試してみると、本当にその通りで驚く。
彼女たちは、自分の瞳の色に合わせて服の色を選ぶ。日本にいると、そんなことは考えたことはなかったけれど、これからはそうしようと思う。
そして私たちが見つけた最高の涼場は、教会の中だった。街の至る所に教会はあったけれど、一番のお気に入りは大聖堂の中。
場所柄か、私たちはよく魂の話をする。リーナが、ねえ、死んだら魂はどうなると思う? と聞いたのが始まりで、それぞれの信仰と人種を超え、私たちの意見は一致していた。肉体は滅びても、魂は永遠にあり、しばらくは残された人々の近くに留まり、そのあとは、私たちが知ることは出来ない遠いところへ行ってしまうのではないかと考えていた。
だって私たちは英語で話してるけど、ちゃんと正しく伝わってるのかわからないじゃない、でも魂で理解出来てるからこうやって仲良くなれてるのよ。リーナの言葉に、エマと私は頷く。まるで少女たちがこの世の大事な秘密に気づいてしまったかのように、誰にも聞かれないよう注意しながらこそこそと話し合う。そして、消えてしまった私たちの大切な家族が、すぐそばにいるかのように、仄暗い聖堂の中をしたり顔で見回したりする。
しかし、私たちが神妙な話をするのは短時間で、すぐに笑いを伴う話題になるから、真面目な信者さんたちに怒られないうちに大聖堂を出る。涼しい聖堂の扉を開けると、照りつける太陽が、燦燦と娑婆を照らしている。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、いよいよ最後の授業の日がやってくる。
朝からナダルが、今日は全員でランチにしようと提案し、馴染みになったらしいレストランへ予約の電話をかけているが、朝早過ぎて誰も出なかったようだ。
ナダルは、口は悪いし見かけもちょっと怖いけれど、気のやさしい大男で、私のことをよく気にかけてくれる。多分、同じくらいフランス語が出来ないという仲間意識もあるだろうし、極東から来たアジア人にはやさしくしなければならないという正義感もあるようだ。
やがて私たちは最後の授業を終え、二週間コースの生徒たちは修了書をもらい、教室で集合写真を撮り、いつの間にかちゃんとナダルが予約していたレストランへと向かう。途中で、別のクラスだったすこぶる美人のナダルの奥さんと、別の学校へ通っているという可愛らしい子供たちとも合流し、大所帯で席に着く。
ナダルの奥さんは私たちより随分上のクラスにいて、そこそこフランス語が話せるようだった。ナダルの子供たちは、四歳と六歳。彼らのフランス語は、私たちよりはるかに流暢で驚く。ナダル一家はロシアからフランスに移住予定で、このあとはパリへ行くそうだ。
私たちはロゼワインを飲んで陽気にお喋りし、ナダルの息子を相手に覚え立てのフランス語を披露し、発音を正され、みんなで写真を撮り合い、固く握手をして、さよならとなる。
人生のほんのひとときを共に過ごした仲間たちとの別れは、予想以上に寂しくて、再会を誓い合いながらもそれが叶わぬ可能性が高いことを知りながら、私たちは名残惜しく解散する。
エマはあと二週間滞在するし、明日には私の隣りの部屋へ引っ越してくるし、今夜はアラン家で開かれる日本食パーティにも来てくれるから、エマと私はまたあとでねと笑顔で別れた。
もうすぐ列車でエクスに着く旦那さんを迎えに行くリーナとは、長い時間ハグをして、泣きたくなる気持ちをぐっとこらえて上を向き、また絶対に会おうねと約束する。お互いに、何かいいたげな顔をしながらも、無理に笑顔を作ってさよならをし、それぞれの明日へと歩き出す。ずっと涙を堪えていたから喉の奥が苦しくて、唾を飲み込み咳き込んで、今夜の準備のために家路を急いだ。
ナミちゃんが、アランたちに日本食を作って振る舞いたいから手伝ってほしいといってきたのは数日前で、自国の料理をホストファミリーに披露するパーティは、ホームステイしている子たちの必須行事らしく、でもナミちゃんは料理が全然出来なくて、それでも巻き寿司ならなんとかなるんじゃないかと思っていたところに私がやって来たものだから、計画を実行に移すことにしたようだ。
小菅くんにも声をかけたらしく、私は巻き寿司と天ぷらを、小菅くんはお好み焼きを作ることになり、少しずつ材料を揃えていた。
エクスの小さなデパートの地下の食料品売り場には、巻き寿司セットなるものが売っていた。巻きすと海苔とお米が箱に入っていたけれど、海苔はセットの中のものだけでは足りないので、アジア食材店で大量に買い足し、お米も二キロ買っておいた。
マサコが貸してくれている大きな炊飯器でたくさんお米を炊き、母屋のキッチンで卵焼きを作り、カニかまぼこや茹でたエビやキュウリやツナを具に、巻き寿司を作る。途中で小菅くんともう一人、ユミちゃんという長く留学している女の子が手伝いに来てくれて、天ぷらにする野菜を切ったり、簡単なつまみも作る。
小菅くんはお好み焼きのためのキャベツを切り続け、若いユミちゃんは実は日本では主婦だということが判明したため私の第一助手となる。肝心のナミちゃんは、楽しそうにウロウロしているだけだったが、アランのキッチンを借りての即席ケータリング部は、日頃日本語に飢えているからか、話に花が咲いてチームワークが良かった。
そのうちアランの友人たちが手に手にワインを持って集まって来て、結局、庭に設えたテーブルには、私たちの分も入れて十二人分の用意が必要になった。
巻き寿司とつまみをテーブルに出し、シャンパンで乾杯する。天ぷらを揚げるため私が席を立とうとすると、それは駄目だと引き留められ、一緒にまずは巻き寿司を食べてから、ようやっと天ぷらへと取りかかる。
一人で出来る作業なのだが、人見知りなユミちゃんと小菅くんもついて来て、またお喋りしながら楽しくやっていると、ナミちゃんとエマまでもがやって来て、キッチンは大渋滞。
みんなで粉だらけになって天ぷらを揚げ終わり、熱々の天ぷらを抱えてガーデンパーティへ戻ると、いい具合に酔っ払ったフランス人の軍団が、拍手で迎えてくれる。
シェフ、どうぞ、と次々とワインやビールを注がれる。肉を食べないエマは、今夜の食事がいたくお気に召したようで、アメージングを連発している。日本人が痩せているのはこんな食事をしているからよという。意外にも、ホウレンソウの胡麻和えやナスの辛し和えやタコとキュウリの酢の物などが、フランス人に好評で面白い。
大量に揚げた天ぷらも、ちゃんと美味しく揚がっていて、私の株は上がるばかり。小菅くんが黙々と焼いていたお好み焼きもサクサクで美味しくて、ジャパニーズピザも大好評。
面倒くさかったけれどやって良かったねと小管くんとグータッチして、私は年の近いフランス人たちと大いに盛り上がる。人種が違っても、話題は変わらない。女性たちは美容の話で話し込むし、男性たちは他愛もない話題で盛り上がり、女性陣の気を引くことに懸命になっている。
途中から、私の絵を見たいといい出した絵描きのマルセルの希望で、タブレットに入っている私の絵の写真を見ながら、ワインを片手に鑑賞会が始まった。
私が描いた野菜や花の絵を見ながら、初めは慎重に神妙にコメントしていた人たちも、そのうち、これはシューだ、キャロットだ、あ、シトロイユー、ピモーンと、日本語と英語とフランス語で、野菜の名前当てクイズになってしまう。途中で、たまに頼まれて描いていた似顔絵が出てきて、それらは彼らが知らない人の顔なのに、私の描いた歪んだ線の似顔絵が面白かったのか大いに受けて、アランがアトリエからスケッチブックを持ってきて、似顔絵描き大会が始まった。
私が即興で描く似顔絵は、誰の顔も崩れて描かれてしまうけれど、酔っているせいもあり、もれなく全員許してくれる。次々に私も私もとなり、せがまれて調子に乗って描いている私の似顔絵をマルセルが勝手に描いていて、わざと下手に描いているのに似ていて大笑いする。
彫刻家のアランの友達は、ほとんどが芸術家だったから、誰が誰を描いても面白くて、芸術家たちの馬鹿げた酔狂な遊びに発展した宴会は、終わる様子がなく、すっかり夜も更け、いつの間にか小菅くんもユミちゃんもエマも帰ってしまっていて、ナミちゃんも部屋に引き上げていた。
笑い疲れた自称芸術家たちだけが、ウイスキーを飲んで煙草を吸い、鎮まらない神経を持て余しながら、たまに思い出し笑いをしてお酒にむせ、ふいに込み上げてくる可笑しさがまた伝染し、誰も彼もがいつまでもくすくすと笑い続け、そのうち腹筋が痛くなってくる。
アランが、よし、と意を決し、やっと宴にピリオドを打つ。片づけは明日にしようといい張るので庭は散らかったまま、フランス式のハグとキスの嵐のあと、私はようやく自室へ戻る。
自室といってもガラス一枚で庭とつながっているわけだから、私が歯を磨きながらみんなに手を振る様を、すっかり役に立たなくなった腹筋を押さえてマルセルが、身をよじらせてガラス越しに見て笑っている。
きりがないので、私はマルセルの視界から姿を消し、リビングの電気を消して気配も消すと、ようやく庭は無人となった。
長い夜が終わる。月が傾き、人生で一番長く感じられた素晴らしい二週間も終わってしまった。