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旅してたときのこと。
例えるなら広子さんは、一人でこつこつと調査を積み重ねていく、ひたむきで無口な女探偵のようだった。いつ見ても一生懸命仕事に取り組んでいたし、誰に対しても平等で謙虚で、かといって無愛想というわけではなく、仕事中に目が合うと、必ずさらりと微笑んでくれる人だった。 そして広子さんは、驚くほど派手な髪型をしていた。何度も脱色したような赤茶けたバービー風の爆発頭には、ところどころに白髪なのか金髪なのかわからない出所不明の雑草のようなメッシュがあって、さらに、五十歳をとうに超えている
アンティーブ(モナコ) #5 モナコの港へ近づくにつれ、まるで高級リゾートのテーマパークに来たような気分になる。あまりに整った街の景色に、私は現実感を失いそうになる。うつくしいグレース・ケリーの血を引くモナコの王室一族が、全員映画俳優に見えてしまうように、何もかもが完璧だと、すべてがフェイクのように思えてくる。 港へ着き、陸へ上がり、少し歩くと、いろんな意味での浮遊感が治まってきた。タマラの旦那さんが書いてくれたギャラリーまでの地図を見ると、目的地はすぐそこだった。とり
アンティーブ(モナコ) #4 小管くんと市場で待ち合わせている。小管くんはエクスの学校のあと、ニースの少し先にある小さな町の語学学校へ通っていて、私からするともう充分にフランス語を話せている小管くんだけれど、仕事で使うからにはもっともっと勉強しないといけないそうだ。 小管くんが滞在する学校の寮と、私が借りたアンティーブの家の真ん中がニースで、エクスでの別れ際、時間が合えばニースでお茶でもと、私たちは軽く約束していた。そのあと、この辺りを調べたらしい小菅くんが、アンティ
アンティーブ #3 タマラの家を仲介してくれたパリ在住のユミコさんから、携帯にメールが届いているのに気がついたのはついさっき。ユミコさんのご主人が、モナコで少し仕事をするらしく、二人で一緒に南へ行くからタマラの家にも寄ります、もしよかったら夜ごはんでも一緒にいかがかしら、そう書かれたメールは三日前には届いていたようで、近頃の私は携帯をほとんど触っていなかったから、それを読んだ十分後、パリから来た二人が私の部屋をノックしたのでびっくりした。 初めまして、居心地はいかが?
アンティーブ #2 鳥のさえずりで目が覚める。爽やかに起きて部屋中の窓を開け放ち、やわらかい風を肌に受けながら窓の外を眺める。寝室の窓からは、生垣に咲き誇る赤や黄色の花々が見え、キッチンの窓からは、裏手に建つシックな平屋の家が見える。引退した美術教師のご夫婦が住んでいるという平屋は、なんとシンプルで素敵な家だろう。 リビングの窓からは、テラコッタ敷きのテラスが見える。そこにはパラソルが用意されていて、その下のテーブルで、私は朝ごはんを食べるのだ。 キッチンには、小さな
アンティーブ #1 タマラは、フランスの電車はいつも遅れるから、何時に着きそうか途中でメールをしてほしいといった。親切にも、駅まで迎えに来てくれるという。 仲介してくれた日本人夫婦によると、タマラは親日家のロシア人で、普段はモナコに住んでいて、週末や休日を過ごすためのアンティーブの家は、三世帯が住めるほど大きな家なのだという。 この夏、プール側の部屋は、タマラのご両親が滞在する予定が入っていて、私が借りられるのは裏側の部屋だったけれど、でもプールは自由に使えるし、
エクス・アン・プロヴァンス #8 言葉の全く通じない相手と、身振り手振りで意思の疎通を図り、私はマットの上に寝転んでいる。授業を休み、思いついて来てみたタイマッサージの店で、タイ人女性にツボを押してもらっている。 時々痛みに耐えかねて、日本語で痛い痛いというと、感じのいいタイ人女性は面白がって、あなた身体が固いわねえといい(多分)、私の手や足をあらぬ方向に曲げては押し、伸ばしては押しを繰り返す。お互いに、言葉は通じないのになんだか可笑しくて、げらげらと笑いながら六十分
エクス・アン・プロヴァンス #7 月曜日、新しいクラスメートが入り、最下位クラスはまた新たな二週間をスタートする。相変わらず夜遊びしているらしい眠そうなカミラに、神父と踊っている昨晩の写真を見せると、きゃあ、それ送ってと、急に元気になって身を乗り出してきて、いつものように授業そっちのけになり、お決まりのようにアンヌに怒られる。新しく入って来たトルコ人のうつくしい歯科医のエズキが、その様子を楽しそうに見ている。 ほんの二週間だけ優位に立っている生徒が、新しいクラスメートと
エクス・アン・プロヴァンス #6 気持ちの悪さと頭痛で目覚め、ベッドの中で、頭痛薬を飲もうかと悩んでいると、誰かが部屋のドアをノックする音が聞こえた。 ゆっくりとベッドから起き上がり、ぐらんぐらん揺れる二日酔いの頭が動かないよう気をつけながらリビングへ行くと、ガラス越しにエマが手を振っているのが見えた。 ドアを開けて、あ、引っ越して来たんだ、ビアンヴニュー(いらっしゃい)というと、アランが迎えに来てくれたのよとエマがいう。さすが、美人にやさしいアラン。 昨日は随分遅
エクス・アン・プロヴァンス #5 授業の合間、カフェでマフィンを食べてコーヒーを飲むのが習慣となり、誰よりも早く時計を見て授業の終わりを先生に告げる役目のナダルが、ベルが鳴るより早く、さ、行くよ、と今日も私たちを先導する。 カフェの奥に、時々見かけるアジア人の女の子がいたので声をかけてみると、彼女は台湾人だった。日本が大好きで、箱根や銀座や北海道へよく行くという彼女に、じゃあ今度日本へ来るときは連絡してねというと、うん、台湾へも来てね、案内するわ、とお互いに連絡先を交
エクス・アン・プロヴァンス #4 市庁舎前の広場に市が立っている。学校からの帰り道にみんなと別れる広場には、学校が休みの土曜日、大輪のヒマワリや熟れた果物、土のついた野菜、手作りのジャムやケーキなどが所狭しと並んでいる。 サングラスをかけた男たちが大きなパニエを持ち、女たちが買い物をする後ろで、手持ち無沙汰に荷物番をしている。花屋のマダムがヒマワリを指差して、トルネソルよといい、身体をぐるりと一回転してトルネ(回転する)、太陽を指差してソレイユね、納得でしょ、と、ヒマ
エクス・アン・プロヴァンス #3 超初級フランス語コースは、一時間半の授業が午前中に二コマだけ。お洒落で素敵な若い女性の先生が二人、一日交代で教えてくれる。 物腰の柔らかいアンヌは、生徒一人一人が理解出来るまで、じっくりと熱心に向き合ってくれる先生で、一方のイザベルは、とてもシャープで、大袈裟なほどはっきりと、大きな声でフランス語を発音してくれるので、私の耳にはこちらの先生のフランス語の方が聞き取りやすかった。 アンヌもイザベルも、このクラスはしょうがないといった感じで
エクス・アン・プロヴァンス #2 目覚まし時計の音で起きた久しぶりの朝、果物とパンをちょこっとだけ口にして、少し緊張しながら身支度をする。授業は朝九時からだけれど、初日はクラス分けのための面接やら簡単な試験やらがあるらしいので、少し早目に行かなくてはならない。試験を受けるまでもなく、一番下のクラスだとわかりきっているのに、それでもなんだかどきどきする。忘れ物はないだろうか。 眩しい朝陽を浴びながら、学校へ行く。昨日は閉まっていた門が開いていて、門の周辺にわらわらと、様々
エクス・アン・プロヴァンス #1 海沿いのマルセイユから、三十キロ内陸へ入ったところにあるエクス・アン・プロヴァンスは、セザンヌが生まれ育ち、そして亡くなった街である。 セザンヌが描いたことで有名になったサント・ヴィクトワール山は、絵で見るのと同じ形で、ずっと列車の車窓から見えていた。 マルセイユで列車を乗り換えて、エクスの駅へ着いたのは午後二時半。TGⅤの駅は近未来的で、その昔プロヴァンス伯爵領の主都として栄えた街の中心部から約十五キロ離れている。私は三時に、借りた
ニース #2 世界屈指のリゾート地で、二日間、ほぼベッドの上で過ごしていた。眠ったりテレビを観たり、料理をしたり。随分疲れが溜まっていたのか、眠っても眠っても眠り足りなかった。 爽やかな、あまりの陽気に誘われて、海岸まで散歩してみることもあったけれど、直撃する太陽の眩しさにくらくらとして、早々に部屋へ戻りシーツの海へと潜り込んだ。 ようやく体調が回復してきた三日目、ニースに来た目的の一つであるパニエ屋さんへ行くことにした。パニエは、英語ではバスケット。フランスへ来ると
ニース #1 バルセロナのサンツ駅から南仏のニースまで、所要時間は約九時間。 途中、フランスのモンペリエという駅で、スペインの国鉄からフランスの国鉄に乗り換えなければならない。 地中海沿いを走る列車からの眺めは、ため息ものの景色だけれど、音もなく国境を越えてフランスに入った辺りから、やっとそろそろ車窓から延々と地中海が見えてくるという辺りから、私はうとうとし始めた。 車内放送がほぼない静かな車内には、さあ眠りなさいというような穏やかな空気が満ち満ちていて、車