奇妙な人間
一ヶ月ほど旅をしている。
北海道をぶらぶらして、今は東北にいる。
そんなに金はかからない。
8月いっぱい旅をしたが、そのあいだの家計簿を見ると8万円ですんでいる。
家にいるのとあまり変わらない。
(家にいると、余計なものをアレコレ買ってしまうものだ)
ところで、私はおととし(2022年)も北海道を旅した。
そのときの宿泊費が、まあすごかった。
2022年
8/2 野宿 0円
8/3 無料キャンプ場 0円
8/4 無料キャンプ場 0円
8/5 無料キャンプ場 0円
8/6 公園野宿 0円
8/7 ライダーハウス 1000円
8/8 駐車場野宿 0円
8/9 公園野宿 0円
8/10 公園野宿 0円
8/11 ライダーハウス 800円
8/12 無料キャンプ場 0円
8/13 公園野宿 0円
8/14 公園野宿 0円
12泊を1800円の宿泊費ですごしたことになる。
一泊あたり150円だ。
まあ気合が入っている。
いったいどのように風呂や洗濯、充電などやりくりしたのか……。
われながら不思議になる。
野生児のようだったあの頃に比べれば、今の自分は軟弱だ。
公園野宿はあまりしなくなった。
(なにせ、虫に刺されまくる)
一泊1000円とか、2000円ならやすいと思ってしまう。
有料のキャンプ場でも躊躇なく宿泊する。
直近の14泊ほどはこうなる。
2024年
キャンプ場 350円
タルハウス 780円
無料キャンプ場 0円
ドミトリー 2000円
ライダーハウス 2000円
公園 0円
無料キャンプ場 0円
ドミトリー 2000円
ドミトリー 2000円
山小屋 0円
公園 0円
山小屋 0円
山小屋 0円
ライダーハウス 1000円
合計 10130円
一泊あたり723円だ。
1000円以下だから、まだがんばっているのかもしれない。
(タルハウスとは、からあげ隊長も泊まった旭川の宿泊施設。ここは温泉も洗濯機もあり、拠点として活用した)
東北は山小屋がすばらしい。
きれいで新しく、トイレにはトイレットペーパーがあるし(持参推奨)、毛布もあるし(緊急時用)、快適にすごせる。
そして無料だ。
ふもとで泊まるより登山した方が安い。
たとえば1時間で登れる山なら、17時に登山をスタートして、18時に小屋着
。
日没/日の出を楽しんで帰ってくる、なんて芸当ができる。
小屋に住みつくような登山者というか、旅人もいるようで、まあそういう奇人変人に出会えるのも旅の魅力のひとつだ。
(私がいったときには、東北の山を15泊かけて歩くという人がいた)
じが
北海道は2回目だ。
同じ道を走り、同じ山を登る。
すると、かつての自分と遭遇するような気になる。
ここを歩くときは、このように感じた。
ここを走るときは、このように考えた。
ということがフラッシュバックする。
2年前登った斜里岳を、今年も登る。
登りのタイムは1分しか変わらなかった。
(1時間46分~47分)
斜里岳はなんどのぼっても楽しい。
山は変わらない。
タイムも変わらない。
しかし「自分」は2年でずいぶん変わったものだと思う。
33歳の私は、若かった。
金がなかった。
今の私は、老いている。
「自分とはこういうものだ」
ということが、30歳にもなれば固まってくるものだと思うが。
私はどうも定まらない。
いや、実はだれだって定まらないのかもしれない。
自分が陽気で愉快な人間に思えるときもあれば、陰気で孤独が運命づけられた人間に思えるときがある。
破天荒に思えるときがあり、慎重に思えるときがある。
善良に思えるときもあれば、悪鬼のように思える。
天才に思えるとき、バカに思えるとき。
豊かに思えるとき、貧しく思えるとき。
このように定まらない。
ただひとつ、定まらないということが、定まっているように思われる。
結局、だれにだって、自分とはわからないものだと思う。
おそらくそれは、そもそも自我というものが存在しないからだ。
存在しないものを
「きっとこういうものだろう」
と推測することで、さまざまなおばけが生まれる。
暗闇のなかには多種多様の妖怪が生まれる。
首のながいもの。胴体が蜘蛛のもの。顔のないもの。
なぜかといえば、暗闇のなかには何もないからだ。
自我があらゆる形をとりうるのも、そもそもが、自我が存在しないからである。
さいきん、私は自我を「自然の狡知」で説明できると思っている。
人間が自我意識を持つのはなぜか。
これは自然が、適者生存システムをつくりあげるうえで有用だからだ。
「ほかでもない自分」
という意識を持つことで、競争原理が生まれる。
結果、より有能な遺伝子をもつ個体が生き残り、子孫を残す。
つまり「自分」のためにがんばっているつもりが、結局は「人類種の向上」――というか遺伝子の発展のために生涯を捧げている。
もちろんそれによって快楽は得られる。自分は若くて美人の奥さんをもっている。かわいい子どもたちがいる。自分は他の人より豊かで、快適で、安全である。
しかしそれが遺伝子の見せる夢でしかないとわかると、なんともつまらないものに思えてくる。
まんまとはめられているのだ。
「私」は遺伝子が見せる夢にすぎない。
それを大事にするのは、自分にかけられた罠を大事にするようなものだ、と思う。
むい
ということを書いても、別に意味はない。
私は半年ばかり、何も書かずにすごしてきた。
たまたま書こうと思ったのは雨のせいだ。
雨で宿に連泊して停滞しているから――こうして、でかくてかさばるパソコン、なんど自宅に送り返そうと思ったかわからないパソコンを開いてしこしこ書いている。
私は文章家になりたかった。
自分には「げいじゅつてきかんかく」があり、「えらばれたしょうすうしゃa selected few」であり、私の使命は「すこしたかいところ」にあると思っていた。
が、今ならわかる。
私はそんなに有能ではない。
私がなにかをなしとげても、自分にとって、人類にとってたいして意味はない。
結局、文章を書くことがすきだったのではない。
「ほかとは違う特別な自分」
とか
「生きている価値のある自分」
といった堡塁をきずきあげて、生きることを慰め、虚無から身を守ろう、という気持ちがあったにすぎない。
ということに気づいてシラケた。
だから書かなかったし、それで平気だった。
これは私にかぎった話ではないだろう。
よくもまあ、世の文章家たちは「本」などというものを書けるものだ。
読むのも書くのもめんどくさいものを、おそろしい努力と苦心でつくりあげる。
なぜか。
自分は文章家でいたい、自分は一流の文章家でいたい、自分が認められたい、という気持ち以外のなんだろうか。
生活に困って文章を書く、というのはバカである。
時給1000円のバイトをした方がはるかに建設的だ。
そもそも、文章家になろうという人間は親が金持ちのボンボンだから、生活に困窮することがない。
だから文章家とか芸術家一般にいえるが、みんなうさんくさい。
高名な人間は、えらい学者でも社会主義者でもガンジーでもマザー・テレサでも、とにかく、うさんくさい。
「俺を認めてくれ」
「私を認めてくれ」
という叫びを、私は見抜いている。
ごまかせないぞ。
美しい女性が、男性の優しさの背後にかならず性欲を認めるのと同じように。
だから私は、ほんとうに立派な人間は、表舞台に出ず、なんとか賞をとらず、蹴飛ばされ、泥水をすすっているのではないかと思う。
……はい、これもまたひとつの我欲なのかもしれない。
「悪口というものは、常にかならず、全部自分のところへかえってくる。世の中は大体そんな仕組みになっているようだ。」と梅崎春生。
つつがなく
そんな感じで私は元気にやっている。
無病息災という言葉がある。
元気があって病気がないことだ。
昔から人間が心から望むところは、そんなものだ。
私はろくすっぽ働いていない。
貧乏な旅をしているが、病気がなく元気でやっている。
ということを報告しておこう。