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#29 ひとりじゃないって

 午後4時過ぎ、ひとりのご婦人が鳥居の前にやってきた。そして、鳥居から続く登山道の先を心配そうに見上げている。
「どうかされましたか?」と中畑さんが声をかけた。 

「主人が一人で富士宮登山道を登り、御殿場登山道を下山して夕方に帰ると言ってましたので迎えに来ました」「連絡はありましたか?」「2時過ぎに下山を開始したと連絡がありました」「じゃあ大丈夫でしょう。普通の人なら3時間半くらいで帰ってきますよ。5時から6時ころには到着するでしょう」と説明すると「じゃあ車で待ってます」と駐車場方向へ歩いて行かれた。今日は冷え込みが厳しく、午後5時に気温14℃、体感温度12℃だ。午後の登山者も少ない。4時以降は皆無だ。5時を過ぎたころ壮年男性が元気よく走り下ってきた。短パンにTシャツ姿だ。一気に鳥居をくぐり抜け駐車場方向へ走り去った。声をかける暇もなかった。
6時過ぎ、先ほどのご婦人がやってきた。「5時ころに連絡がありまして7合五勺の山小屋を通り過ぎたと言ってきました」「ええっ、七合五勺ですか。すると、到着は8時ころになりますね。少し遅い気がしますね」「主人は少し太っていて足は強い方じゃないんです」「うーん」と中畑さんと目を合わす。その時、1台の車が鳥居横に止まった。先ほどの短パンとTシャツの壮年の方だ。「仲間が帰ってこないので探しに行く。車はここでいいか?」と大きな声でいう。「売店横でお願いします」というと、車を売店横に移動させ、あっという間に駆け上がって行った。
風船のような照明器具のエンジンをかける。照明の周りはいっきに明るくなった。だが鳥居の先は登山道を覆う周りの木々が暗闇を演出している。気温はさらに下がった。ご婦人の視線は登山道方向に向いたままだ。この寒さは堪える。「車を鳥居の近くまで持って来て登山道方向を照らしていただけませんか?」とお願いする。10分ほどで車がやってきた。鳥居奥の登山道を照らすように誘導して「奥さん、車の中でご主人をお待ちください」というと、「はいありがとうございます」と車に乗り込んだ。「これで寒さは凌げる」と中畑さんとニンマリ。8時すこし前、「主人からドーザー道(ブル道)と下山道の交点に来た。ドーザー道(ブル道)を下山するといってます」「だめです。下山道を進むように言ってください」と中畑さん。お仲間を探しに行った壮年の男性もまだ帰らない。8時を過ぎたので、検収員の責任者に現状を報告すると「我々が委託を受けているのは、保全協力金の検収です。遭難と判明すれば積極的に協力すべし。そうでない場合は、道義に応じて行動してください」との指針を受けた。
 
当日の保全協力金は、指定場所に届け点検を受けて終了するのだが、登山者3人が帰ってこないこの状況で照明を消して「勤務の終了時間ですので私達は帰ります」とは人間的にできない。そこで中畑さんに「現在地で照明を維持して3名の下山を見届けてください」と依頼し、鮎沢さんと2名で保全協力金を届けることにした。逸る心を現わすように、ブレーキを踏む回数が増える。協力金を異状なく届けて30分ほどで五合目へ戻ると、「3人ともつい今しがた到着して異常なし」と中畑さん。壮年男性2名のグループは、無事に下山すると何も言わずに、そそくさと車に乗って帰ったとのこと。件のご主人は奥さんから厳しく叱られたそうな。検収員の責任者にことの顛末を報告した。
 
「異常ありません。一人じゃないっていいですね」と。ホッと安堵し帰路についた。

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