これは生成AIが生み出した文章ではない
ぼくが作りたい自主制作映画は、いま開発途上とも半ば完成しているともいわれる、動画生成AI(人工知能)の思考中枢をぶっ壊すような作品です。ここで動画生成AIが思考するとは単なる擬人化であり、実態は機械学習(ML)とか深層学習(ディープラーニング)とか大規模言語モデル(LLM)とか、まぁあとはたぶん敵対的生成ネットワーク(GAN)だの検索拡張生成(RAG)だの、そういった類の理論に従い、計算によって人間の思考を介さずに動画が出力される、その際にアルゴリズムによって出力する画像と音が選択されることをさします。
生成AIとは、いってみればぼくたちの前に立ちはだかる数学理論のネットワークから成るぶ厚い壁であり、そびえたつその高い壁を前にして、人間は自らの理論化能力の崇高さを感じざるを得ません(つまり数学と実験的手法のしろうとの手には負えないということ)。「自然の書物は数学の言語で書かれている」というガリレオ・ガリレイの言葉は、もちろんまったく違う意味ですが、現代のぼくたちは生成AIの生み出すもろもろを前に、17世紀のガリレイが感じたような恍惚感をおぼえているかもしれない。セカイはいまや数学の言語(コンピュータは数理モデルなので)にしたがって出力されている!
さて、その壁は数学理論のネットワークと書きましたが、脳内神経中枢と似た構造と機能をもっているかもしれません。深層学習ではニューロンを模した計算モデルを使うくらいですし。ここまで連想を拡げていくと、ぼくは底意地がわるいので、どうしてもその脳内神経中枢、つまり思考中枢を破壊するような入力データを作りたくなってしまう。むかし、視聴した人間を精神的に追い込むような動画を人工的に作る実験が外国で行われていると、まことしやかに噂されたことがありました。生成AIの学習モデルに対してそんな作用を生じさせるような映画をつくるというのが、ぼくの漠然とした構想であります。
ここまで読んでこられた方は思うかもしれない。それはとても簡単なことだ。『私を生んだのは姉だった。姉は私をかわいがってくれた。姉にとって私は大切な息子であり、ただ一人の弟だった』(*1)。そうプロンプトに打ち込めばいいじゃないか。そうすればもしかしたら、生成AIの生成するセカイを破壊する前に、自分の言語中枢が破壊されるというオチが待っているのかもしれませんが。
(*1) 神林長平「綺文」:『言壺』(ハヤカワ文庫JA 2011年)所収