未来はこれから選べばいい。君はスタートラインに立ったばかりなのだから。
「新社会人」とは、どのような人間を指す言葉だろうか。
一般的なイメージでは、新卒の大学生が企業に就職し、正社員として働きはじめることを指すと思う。
そのイメージと相反するように、私は20歳からアルバイトで働きはじめた。
親の経済状況が悪かったわけではない。夢を目指して専門学校に進学し、憧れの職に就けなかったという、ありきたりな話だ。
入社式はない。スーツも着ない。
未だ学生時代が終わっていないような、中途半端な感覚のなかで、私は「生きる」という目的のためだけに働きはじめた。
*****
(どうせ働くなら、少しでも楽しい方がいい)
そう思って選んだフリーター歓迎の仕事は、カフェの店員。出勤は月~金の平日、時間は9:00~17:00。新社会人の雇用契約とそれほど変わらないタイムスケジュールだと気付いたのは、少し後になってからだった。
仕事先はあえてオフィスビル近くの店舗を選んだ。理由は「丸の内OL」なんていう呼び名に憧れて、その雰囲気を少しでも味わいたかったから。仕事帰りのショッピングもきっと楽しい……そんな希望もちょっと抱いたりして。
新しい環境の中ではじまった、1年目。
慣れない作業と業界の常識を覚えるのに精いっぱいで、未知の世界を全力で駆け抜けている感覚だった。気が付いたら、年が明けていた。
逆によく覚えているのは、専門学校で出会った友達と深夜まで遊んでいたこと。
彼女とは学科が違ったのだけれど、同じ学生寮に通っていたよしみで仲良くなった1人だ。卒業したあとも示し合せてアパートを近くに借り合ったほどだったから、親友と呼んでも間違いない関係だったと思う。
そんな彼女は、晴れて「新社会人」になっていた。しかも念願の企業に内定が決まったので、私から見れば夢を叶えた成功者と言っても過言ではない。正直、羨ましく思うことも多かったけれど……会うたびに仕事がハードであることも愚痴と一緒に聞いていた。
「毎日、結構しんどくて。帰りは終電ギリギリだし、朝は5時起きだし」
「確かに、自分が悪いのは分かっている。けどさ……でもさ……!!」
お互いのストレス解消に慣れないお酒を飲んで、騒いで、笑って、泣いて。束縛からの解放を求めるように、たまに夜の街に繰り出したりもして。
常識もモラルもあいまいな時間。そんな時、少し前まで当たり前だった、あの自由な空気感を思い出したりして
「学生時代に、戻りたいね」
「……うん」
まるで遠い昔のことのように、ぽつりと2人でつぶやいたりした。
ちなみに私はフリーターになったものの「憧れの職業に就く」という夢を諦めてはいなかった。アルバイトはあくまで、生きるための手段として選択したに過ぎなくて。時間が空けば企業の採用情報を調べ、再チャレンジできる方法をずっと探し続けていた。
けれど調べれば調べるほど……「新卒」という階段を踏み外した事の大きさに気付かされるばかりだった。第二新卒というのは、一度就職に成功した人のことを指す。中途採用というのは、実務経験がある即戦力を求めている。
つまり私のように就活に失敗し、社会経験も実務経験も浅い人間を正社員として受け入れる企業というのは、見当たらなかったのだ。
もちろん正規雇用だけではなく、非正規雇用の採用も調べた。けれど専門学校で学んだスキルが活かせる仕事の募集は打ち切られており、あるのは最低条件すら満たせていない職種ばかり。大企業だけじゃなく小さな企業も検討してアプローチしたけれど、返事は返ってこなかった。
『諦めなければ夢は叶う』……子供の頃から信じ切っていた、キラキラした物語の教訓。どこまでも信じて疑わなかった私の心に、じわりじわりと黒い影が侵食するのを、感じていた。
***
それでも夢を諦められなかった、2年目。
「……ごめん。実家に、帰ることにした」
突然、彼女から別れを告げられた。ここ数ヶ月は会う時間がなかなか取れなかったのだけれど、久しぶりに会った顔はとても疲れているように見えた。彼女は多くを語らず
「理想と現実のギャップに、耐え切れなくて」
そう言って、苦笑いしながら私に謝ってきた。
こんな時、普通ならどんな言葉をかけるべきなのだろうか。『頑張ろうよ』とか『せっかく夢を叶えたんだから』とか『本当に後悔はないの』みたいな、引き止める言葉をかけるのが常識なのだろうか。もしそうだったとしても……
「謝らないでよ。何も悪い事していないじゃん。もちろん寂しくはなるけれど、応援するから……無理だけはしないで」
私は、彼女が寝る時間すらままならない中で働いていたのを知っていた。愚痴もたくさん、聞いてきた。だから心身を壊す前に決断して本当に良かったと、虚ろな彼女を思わず抱きしめた。
その後、急に決まった引っ越し作業を手伝って、あっという間に別れの時が訪れる。苦しみから解放された彼女の表情は、ちょっとだけ柔らかくなっていたように見えた。だから私は精一杯の笑顔で、彼女を見送った。
(……夢を叶えても、理想が叶わない事も、あるのかもしれない……)
私は彼女が乗った電車が小さくなるのを見つめながら、漠然と考えた。けれど自分は何も叶えていなくて、同じラインにすら立てていなかったから、彼女の苦しみを理解してあげることはできなかった。
新社会人になれた者、なれなかった者。わずかな差で生まれた分厚く透明な壁は、大切な人の心を理解するのさえ妨げるのだろうか……
そんな事を考えたら、大人たちが作った弱肉強食の社会のシステムに、心の底から嫌気がさした。
***
仕事も慣れて、リーダーのような立場にもなりつつあった、3年目。
彼女が居なくなった寂しさと、夢に手が届かない絶望感が相まって、私のストレスは極限まで達していた。
時給が上がるから引き受けたけれど、私はその立場を求めてこの仕事を続けていたわけじゃない。同じことを繰り返す毎日。たとえ全力で仕事をしても、望んだ未来に微塵も繋がらない。むしろ経歴にキズがつくばかりだということを、嫌と言うほど痛感していた。
理想と現実の溝が大きくなるにつれて、私も徐々に心を病んでいく。なぜ夢と関係のない仕事をしているのだろう。なぜあの時、私は企業に選ばれなかったのだろう。どうしてもっと死に物狂いで就活しなかったのだろう……なぜ、どうして、私は……!!
それでも、心を殺して働かなくてはならない。
そうしなければ、この社会を生きていけない。
(……実家に帰ろうか……)
母親の顔が、浮かんだ。
電話番号は覚えている。その気になれば、いつだって連絡することができる。
けれど……せっかく夢を応援してくれて、学校に通わせてくれた親に申し訳ないという気持ちが、その選択をいつも拒ませる。夢を諦めたなんて、どうしても伝えたくなくて。気の遠くなる学費の返済だけが残るなんて、どうしても言えなくて。
(……この世から、いっそ消えてしまえば……)
そんな気持ちを抱えて、ホームに入ってくる電車を見つめる。
幸いだったのは、そんな電車を見るたび、彼女の顔が浮かんだこと。彼女が、苦しい現実から逃げ出したという事実。
(……逃げることは、いつでもできるから……)
そう思いとどまって、もう少しだけ頑張ってみる。
そんなことを繰り返していたとき、私に小さな転機が訪れた。
***
とある暑い日の、仕事の帰り道。
連勤明けで、明日は休日。このわずかな休息に何をするべきか迷いながら、スーパーで夕飯を調達していた時のことだった。
ストレス解消のために、安い缶酎ハイを求めてお酒のコーナーへ立ち寄る。すると、ふと一本の缶ビールが目に留まった。私はビールの味が苦手で普段は飲まなかったけれど、『フルーティな香り』という謳い文句に負け、疑いながらもつい手に取って購入してしまった。
「ただいまー……」
誰もいないアパートの部屋のドア開け、私は寂しさを埋めるように帰宅の声を放ち、電気をつけた。
今日は暑すぎた。夜になっても風がぬるく、喉はもうカラカラだ。冷たいミネラルウォーターを求めて、クーラーをつけるよりも先に冷蔵庫を開けた。
……しまった。水を切らしたから今日買おうと思っていたのに、すっかり忘れていた。辺りを見渡してもお茶もジュースも、飲めるものがまったく見当たらない。
「なんでもいいから、飲めるもの……」
ふと、さっき買ったばかりのビールの存在に気付く。もうこの際、仕方がない。苦い味はガマンして、とにかくビールで喉を潤すことにした。
……プシュ……ごくっ……ごくっ……!
…………ちょっとまって
「ビール、うまいじゃん」
驚いた。これまで理解できなかった苦味が、なぜかとても美味しく感じる。キンッと冷えたビールは、炭酸の刺激にほどよく苦味が合わさって、カラカラに渇いた喉に潤いと爽快感を与えてくれた。
そういえば、父はいつも最初の一杯にこんな飲み方をしていた気がする。コップに並々と注いだビールを、ぐいっと一気に飲み干してしまうのだ。そんなに早く飲まなくても……と、半ば呆れて見ていた事を思い出す。
『ビールの味は大人になれば分かる』
……父の言葉を思い出した。
これが大人の味というものだろうか。
やっと分かるように、なれたのだろうか。
一口、また一口と、確かめるように口に運んでみる。謳い文句の『フルーティな香り』はちょっと分からなかったけれど。でも味は、美味しいと思えるようになった気がする。
(ビールの味は大人になれば分かる、か)
「じゃあ少しは……、大人になれたのかな……」
そう思った瞬間。急に目頭が熱くなって、涙があふれていた。
私は「新社会人」を名乗ることができなかった。
レールから外れて大人に成り損なった私を、世間は空気のように目に見えない存在として扱った。自分の存在価値が、分からなくなっていた。
アルバイトは「社会の責任から逃げている」と言われる現実が辛かった。たとえ電話一本で仕事を休むことができず、代理が見つからなければ出勤する責務を負っていたとしても。納税の義務を果たし、たった一人で生計を立てていたとしても。
全部、気のせいかもしれない。けれどビールの味が分かった瞬間、これまでの苦しみが労われたような、誰かが背中に手を添えてくれたような、そんな気がしたのだ。
……今度、父に報告しよう。
ビールの美味しさが少しだけ分かったよ、と。
そして、一緒にお酒を酌み交わそう。
言えなかった事も、ちゃんと伝えながら。
*****
私はその後、自分の将来について、もう一度じっくり考え直した。本当にこのままでいいのか、それとも別の道を選ぶべきなのか。
そんな時、思い出したのはやっぱり彼女の事だった。「夢を叶えても、叶わない理想」……レールから逃げ出した彼女のことが、ずっとずっと引っかかっていた。
(もし私が、憧れの職業に就いたとして。それでも叶わない理想があるとしたら、いったいそれは何なのだろう?)
かなり漠然としたイメージだったから、とりあえず彼女の苦しみを想像しながら、私の「叶わない理想」について考えてみた。
……すると、意外な事に気付かされた。私は理想の仕事に就きたかったのではなく、どうやら「その先にある未来」を叶えたかったらしい。
私が叶えたい理想は「ある程度の不足なく使えるお金と時間」「自分を受け入れてくれる人間関係」というライフスタイルそのもの。これが叶わなければ憧れの職に就くというステータスを手に入れたとしても、おそらく満足できないことが分かってしまった。
……正直、彼女がレールから逃げたしたタイミングで気付くチャンスはいくらでもあったはずだ。あんなに心がザワザワしていたのに、その原因にずっと気付くことができなかった。
けれどそれは、周りを見る余裕がないほど本気で目指していたから。少なくも自分なりに設定した目標を見つめ続けることができたからだと、少しでも自分を肯定することにした。
「本当の夢」を理解した私は、転職を決意する。
とは言え、いきなりアルバイトから正社員はまず無理だし、将来的にキャリアアップも目指しやすく時給も高めな事務職に転向したいとも思った。もともとパソコンは趣味で触っていたから、その延長でExcelやWordの知識を蓄えながら、派遣社員の面接を手当たり次第に受け続けることにした。
登録した派遣会社は15社。最初は書類選考で落とされたり、そもそも派遣会社から仕事の提案すらない日々も続いたけれど……なんとか1年後に、納得できる時給で営業事務の仕事が決まった。
そして、5年後――
*****
「うん、じゃあまた連絡するね。改めておめでとう」
私は電話を切ってマンションの部屋のドア開け、電気をつけた。手元にいくつか抱えていた郵便物を、そっとテーブルの上に置く。その中には結婚式の招待状が混ざっていた。送り主は……あの彼女だ。
あれから彼女は地元で就職をして、人生を再出発。その後に開催された高校の同窓会で、ずっと片思いをしていた人と再会したらしい。そしてその人と結ばれ、今回晴れてゴールインという結末を迎えた。
「さて。今日はちょっと贅沢に……!」
今日は暑すぎた。夜になっても風がぬるい。カラカラになった喉をミネラルウォーターでちょっとだけ潤して、スーツを脱いでまずはお風呂に直行。
着替えも済んで、身支度を整えたら。前日に作り置きしておいた料理と、奮発して買ってきたデパ地下の総菜を温めて。そして……
「よしよし。ちゃんと冷えているな」
冷蔵庫の中に入れておいた、何種類かの缶ビール。その中には、あのとき飲んだ『フルーティな香り』のビールも用意しておいた。
……プシュ……ごくっ……ごくっ……!
「ふう。やっぱり、これだよね!」
すっかりビール好きになってしまった私は、『フルーティな香り』も少しは分かるようになっていた。父いわく、ビールは苦くてなんぼらしいが、私はやっぱりこの爽やかなタイプが好きだ。
このビールを飲むと、いつも昔のことを思い出す。苦しかった気持ち、辛かった気持ち、消えてしまいたい気持ち……そういう意味では、苦いビールになるかもしれないけれど。
あれから派遣社員として勤めた会社は、残念ながら契約更新に至らなかった。それから何社か渡り歩いた後に、今の会社と出会うことができた。契約社員としての採用が決定し、上司にも気に入ってもらえて、数年後には正社員の話も舞い込んできた。
現在は会社の仕事をこなしながらも、独立も視野に入れて前に進んでいる。私の「本当の夢」を叶えるためには、まだまだやるべき事は山積みだ。
さっき電話で話していた彼女の、昔のことも思い出した。あの時は私以上に消えてしまいそうだったけれど、今は声も明るいし、送ってくる写真もいつも幸せそうな笑顔だ。
彼女もきっと「本当の夢」を、遠回りでも見つけることができたのだと思う。
側から見たら私たちの選択は、下らない負け犬の足掻きに見えるだろうか。私はそれでも構わないと今は思っている。誰にも理解されなくても「本当の夢」が叶えられるのであれば。
今の自分を大切に、できるのであれば。
***
アルバイトで働きはじめた、20歳の私へ。
世間は君を「新社会人」とは言わず、冷たく感じることもあると思う。けれど私は、君は立派な新社会人であると伝えたい。なぜなら人の役に立つ仕事を十分にこなし、いち社会人としての義務を果たしているのだから。
この道で良かったのか、迷うこともあると思う。その時は辛いかもしれないけれど、大いに迷ってほしい。そして自分なりの答えを見つけ出し、一歩前に歩み出してほしい。その答えは、決して間違いではないのだから。
今、進んでいる道に後悔する日が来たとしても、大丈夫。
これからの道は、これから選んでいけばいい。
人は過去には戻れないけれど、未来を選ぶことはできる。
君の未来は、まだはじまったばかり。
スタートラインに、立ったばかりなのだから。