#PrideMonthを私が支持するわけ
6月は「Pride Month(プライド月間)」。
例年であれば、世界各地でレインボーをあしらったフラッグなどを掲げて、LGBT+へのサポートを伝えるようなさまざまなイベントが行われる。
ただ、今年はどんな権利を主張する企画だろうが、命には代えられない。圧倒的に縮小されている。でも、だからこそ、オンラインやできる範囲で何かできたら良いのでは?という動きもあるように感じている。
そんな中で、なんだか悲しいかな目に留まったニュースがこれ。
判決を下した側にもいろいろな思慮や理由があるのかもしれない。でも、なんだか悲しい。お金というこれからの暮らしの支えがもらえなかったこともさることながら、やはりお二人の関係性が「人のため」にあるはずの「法」のもとで認められなかったという事実。
普段暮らしている中で、私はこう「法」に認められているとか、「社会」に認められていると気にすることもそんなにあるわけではないけれど、やはり「認められない」というのはなんだかつらいものがある。(どうしたら認められている、といえるのかわからないけれど。)
30数年生きてきて、私自身は生物・戸籍上も「女性」で、どうやら行為を持つ相手は「男性」だけ。なので、このニュースのような状況に直面することはないかもしれない。
でも、大事な友人・知人の中にはそうではない人がいる。
たとえば、私がつくったご飯を「おいしい」と満面の笑みで平らげてくれた友人。(「私のご飯をおいしく食べてくれた人ランキング」でベスト3に入る)。戸籍上、生物学上は現状「女性」である「彼」。彼がもし一緒に生きていきたい人が戸籍上、生物学上「女性」だった場合には、社会や法からはその関係が認められなくなってしまうのだろうか?
勝手な話だけれども、私はそんなのは嫌だ。あの笑顔と、明るい「おいしい」という声が響く家庭は、広く認められて欲しいし、なんならいろんな人からうらやましい、自分も目指そう!と思うべきだと思う。(私だったら本当にうらやましいし、そんな友人がいることを自慢してしまう。なのでしている。それほどに彼の「おいしい」には力がある。)
そんな「たられば」のモヤモヤを私がここに書いたところで、何かが変わるのか分からない。でも、自分がそうではないからと言って「ない」ことにはならないし、「知らないから」といっても「ない」ことにはなってはいけないことが社会にはごまんとあるんだな、と感じる今日この頃。
SNSを見渡せば、#BlackOutTuesdayや#BlackLivesMatter、はたまた#光復香港に#時代革命と様々な差別、分断に対する声が上がっている。でもそれは自分の周りに身近に感じている人がいなければ、「知らない」ことかもしれないし、「知る必要がない」と思うこともあるかもしれない。
でも、もし何かのきっかけでそんな出来事、言葉に触れることがあったら、一歩、1mmでも自分事として引き寄せてみる人がひとりでも、ふたりでも増えることで、何かこの社会がより良い方に進むんじゃないかと思いたい。いや、思っている。
You are not only responsible for what you say, but also for what you do not say.
- Martin Luther King, Jr. -
別に何かと戦いたいわけではないけれど、ただ私の、誰かの大事なひとの笑顔がそこにあり続けるためにやれること、言えることはしてきたい。こんなにも発信することがハードル低い時代に生まれ、生きているのだから。
昨日の当たり前は、今日の当たり前じゃないかもしれない。そして明日の当たり前もまた違うかもしれない。でも、だからこそ、「当たり前」が少しでもいい方向へ変わることを願うし、大事にしたいと思う。
#EducateYourself
- Terrence Floyd -