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スペインの「発見」とフラメンコ

マティス展が来るという、2023年の暑く熱い上野公園に足を踏み入れた。といっても目当ては国立西洋美術館の企画展「スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた」である。その規模は決して小さくなく、セルバンテス『ドン・キホーテ』の挿絵、ベラスケス、ゴヤ、ドラクロワ、ピカソ(小さい作品だがど迫力!)、などスペインを代表するアーティストたちの作品が一堂に会する。私が行ったのは土曜の午後だったが、同日にかなり賑わっていた東京国立博物館の『古代メキシコ展』と比べても、穏やかに観覧できた。もう少し押し寄せていてもいいのになぁ、と苦笑した。会期は9月4日まで。

この企画展『スペインのイメージ』の構成のひとつとして、「スペインの「発見」(The "Discovery" of Spain)」と題される2章がある。2−1に「旅行者の見たスペイン」という題がついているが、語り手のマリア・デ・ロス・サントス・ガルシア・フェルゲーラ氏(楠根圭子氏訳)によると、「・・・旅行者たちーーより文明化され、近代的な国から来たことによる優越感を抱いていたーーは、スペインにパリやロンドンの日常生活とは異なる印象を持ち、過去の世界の冒険に生きるという幻想を抱くことができたのである」(注1)とある。これは私が近年抱いていた疑問とつながった。すなわち、日本人のフラメンコ好きの源流には、植民地化されなかった日本の人々のエキゾチシズム(異国趣味)があったのではないかと。漱石がロンドンに向けた、あるいは鴎外がベルリンに向けた眼差しとは違う、「日本という文明国からの上から目線」。サイードがオリエンタリズムと呼ぶところに近い、無意識の優越感があったのではなかろうかと。

「小山氏と、日本のこと、スペインのこと、フランスのことなど色々話したが、氏が言うには、日本もフランスも、もはや人間が段取りと形だけに組み込まれて生きているに過ぎない、スペイン人にはまだその段取りと形だけにプログラムの中に組み込まれてというものがないのだと、まさにその通りだ。

天本英世『スペイン巡礼』株式会社話の特集、1980年、288ページ。(※1)

日本におけるフラメンコ普及にあたって、その立役者たちにも、「発見」という意識がなかったといえるだろうか。なお、資料にあたれていないが、スペインが語られる上で必ず登場する「情熱」というキーワードは、小説家の 堀田善衛ほったよしえが最初に使用したという。情熱とは、ウェブで検索するだけでも「理知(理性と知恵。感情に左右されず論理的に考え判断する)」の対義語であって、褒め言葉として使っているのかもしれないが、非文明的というイメージもはらむ危険がある。堀田の言葉は彼自身の印象であるのかもしれないが、それを個々のイメージとして持ち続ける必要はない。

昨今、「文化の盗用」という問題が、ファッション業界やアート業界で聞かれるようになっている。私が意識するようになったのは、ニュースよりも、著作権の書籍で読んだ一節であった。

例えば、「サイモンとガーファンクル」は、『コンドルは飛んでいく』という曲で大儲けしたが、この曲がもともとペルーの人々によってつくられ、大切に伝えられてきた民謡であるにもかかわらず、彼らはペルーの人々に利用料を払っていない。また、タヒチアン・ダンスを使って儲けている「○○ハワイアン・センター」やプロのダンサーは、タヒチに利用料を払うべきだーーという主張も行われている。この話を聞くと、「そんなバカな」と言って笑い出す人が多いが、・・・
笑い出す人々は、まだ「守るべき権利」に気づいていないか、あるいは無意識に先進国の利益の側に立ってしまっているかもしれないのだ。

岡本薫『著作権の考え方』岩波書店、2003、第9刷、222ー223ページ。

外国人だから他者の文化を取り入れるべきではない、ということではない。相手の文化に対する姿勢、知識の習得、敬意の表し方が問題になるのである。フラメンコジャーナリストの志風恭子氏は「外国人とフラメンコ」の記事(注2)において、「外国の文化を愛すること、やることに引け目を感じる必要はありません。 そこに敬意と愛があれば、文化の盗用と見做されることもないでしょう。」と述べるが、これについては以下に興味深い記事をリンクしておきたい。

もちろん、日本のフラメンコアーティストたちが皆無自覚にフラメンコを売り物にしているなどということはない。

自分が育った日本とはまったくちがう環境、異なる人間関係、人間感情。こんな世界があったのかっていうショックばかり。だからこそ、フラメンコは全然違う文化の中で育ったんだ、もっと勉強しなければいけないっていう緊張感を持つようになったと思うの。

AMI『AMIの素敵にフラメンコ』ベースボール・マガジン社、2002、8ページ。

また、少し話はずれるが、イスパニカ編著『フラメンコ読本』(晶文社、2007)ではの橋本ルシア氏による「バイレとは何か」はたいへん勉強になる。フラメンコにおける舞踊(バイレ)を、能や歌舞伎、民俗学者である 柳田國男やなぎたくにお 折口信夫おりくちしのぶの言葉を借りながら説明していて見事である。再販しているのかどうかわからないが、図書館にあればぜひ。

なお、音楽評論家の故・ 濱田滋郎はまだじろう氏は「フラメンコを理解するには、結局「感ずる心」を持ってさえいれば足りるのだ」とおっしゃるが、言うまでもなく濱田氏はフラメンコのみならず、スペインギター、クラシック音楽、南米音楽研究の大家である。その膨大な知的データベースに裏打ちされた「感ずる心」を、単純に自分も持っているなどと思ってはならない。フラメンコが好きで伝えようとするならば、ひとりよがりにならず、常に自分の意識を振り返って、文献による理解も惜しまず、真に愛されるパフォーマンスを目指すべきではないだろうか。

注1 国立西洋美術館『スペインのイメージ:版画を通じて写し伝わるすがた』図録、56ページ。 
注2 https://flamenco2030.com/wp-content/uploads/2021/03/講座20回12月.pdf、2023年8月6日閲覧。

【参考文献】
濱田滋郎『濱田滋郎の本 ギターとスペイン音楽への道』現代ギター社、2007。

※1 フラメンコとは関係ないが、同著において、「フランコ時代がよかったというスペイン人が多いという日本人もいるけれど、それもそのはず、日本人の商社員なんかがつきあっているのは上流階級なのだ」というくだりも。天本氏は木下惠介監督『二十四の瞳』を観たのをきっかけに知ったが、洞察力も行動力もあるいい役者さんだったのが伺える。

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