真夏のウォーキング
天気予報に恐れを覚えた。静岡県に40度予報が出ている地域があるようだった。これまでにも、群馬県や埼玉県の地域で40度超えの気温が予報されていたことはあった。実際にその気温になっていることを街角の温度計を示しながら、女性アナウンサーが息を弾ませて熱そのさを伝える姿などを見たことはこれまでもあった。僕が恐れを覚えたのはその最高気温の事ではない。それとほとんど変わらないと思われる39度予報が出されている地域の多さにだった。日本列島の広い範囲にそれが予報されていることに恐れを覚えたのだ。ヒートプラネット。地球は確実に熱くなっている。
昼間を避けて午前中の早い時間にウォーキングするようにした。私宅は山麓にほど近いところにあるから森林浴を楽しみながらウォーキングもできたはずなのだが、このところ近所でも熊や猪の目撃もあってそうすることを避けなければならず、照り返しの強い町中を歩かなければならなくなった。朝7時過ぎ、僕と母はウォーキングに出かける。少し前までなら、朝のテレビ小説を見てからウォーキングに出かけていたが、それでは間に合わない。気温の上昇と照り返しが激しくなってしまう。大袈裟な言い方だが、一刻を争う。今は夏休み。登校する生徒もなく通りは寂しい。「おはようございます。」の可愛らしい声との挨拶の交換がしばらく恋しくなる。誰もが健康を求めていながら歩いている大人は極めて少ない。宵っ張りは朝に弱いから朝の運動は苦手だろうが、僕と母以外すべてがそうだとは考えにくい。生活習慣の違いなのだろう。市街地にはコンビニと同じぐらいコンパクトなジムが増えたと聞く。そんな人たちがそこへ行くのかもしれない。僕と母以外がそこへ向かう光景を想像し、現代社会に取り残されてしまったかのように思った。りしながら歩いた。
山麓の方へ向かうのは止めて国道に沿った歩道を歩くことにした。当然、ここにも生徒も歩いている人もいない。寂しさと日差しの強さだけを意識する一方で、主要道路は何かのパレードのように賑やかだった。近くには工業団地があるから、そこへ通勤する人たちの車が列を作っていた。不意に気が付いた。排気ガスの臭いが全くないことに。伝記モーターやハイブリットエンジンが発動機の主流になっていることはわかっていた。それの燃料費と走行距離ばかりが話題にされるから、エコの概念の中のクリーンを全く失念していたようだ。一瞬、コロナウイルスにでも感染しているのではなどと、自分の嗅覚を疑って、深く鼻で空気を吸ってみた。何かの花の香りがした。やはり排気ガスの臭いはない。あの不快な臭いは本当に全くない。今更何をと言われればそうなのだが。これまで、ウォーキングコースは車の少ないところを選んで歩いていたこともあって気が付く機会もなかったと言えなくもない。子供の頃は、車が一台僕を追い抜いていくと、そのマフラーから灰色の煙が噴き出し、不快なにおいと共に排気ガスをまき散らして行った。子供ながらにそれは吸ってはいけないものに思えて、息を止めてやり過ごしたりしたものだった。嗅覚が悪臭に気が付くのは簡単だとしても、無臭には気が付きにくいことを体感できたのは実に面白かった。そして何より、技術の進歩に感心しない訳にはいかなかった。それでも温暖化は進んでいる。車は急には止まれないなどと言うが、人間社会もそうなのだろう。SDGSを唄い、人間社会がエコに取り組み出したのはいつ頃からだっただろうか。随分前から温暖化防止対策と言うブレーキを踏んだはずなのに未だその効き目はない。遠くで救急車のサイレンが鳴っている。熱中症だろうか。それによって医療現場が切迫してしまうこともあるだろう。母に水を飲むように進めた。「暑いけど歩くのは気持ちがいいね。」 ここは山麓に近いから、町中にまで自然の恵みの涼しい風が届いてくることがある。鶯が泣いている。蝉も泣き出した。トンボが群れを作って飛んでいく。同じ空にはミサイルが飛んでもいる。車は先を急ぎ、在来線の上を新幹線が銀色の車体を輝かせながら進んで行く。生きていることを実感できない人々と生きたいと願う人々。それが同じ惑星のあちらこちらに散らばっている。空の青に山の緑が鮮やかだ。調和の美を見えない目に思い浮かべた。雲に乗ってみたいと思った。さぞかし涼しいだろうと。技術の進歩は想像がつかない。いずれそうできるかもしれないが、今はしっかりとウォーキングすること。それが今僕がやるべきことだ。
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