じゃがいも掘り

早朝4時半。体を屈めて両手で土を掘り返す。大証様々なじゃがいもが転がり出てきた。大きいものなら、それは茎の周囲で、すでに土から飛び出しているものもあった。じゃがいもの収穫は、まず初めにじゃがいもの茎を引き抜く。茎だけが抜けてしまうようなその土の中からは大きなじゃがいもが収穫できる。茎にいくつかのじゃがいもが付いているようならそこから収穫できるじゃがいもは小ぶりのようだ。同じ土で育てられたじゃがいもなのにどうしてこうまで違うのだろう。種芋が違うものだったのだろうか。中には育っていない小芋ばかりが根に付いている茎もあった。個体差と言うものなのだろう。人もそうだ。同じ空気を吸い水を飲み学び働き本を読んでも誰一人として同じ考えにはならない。極めて近い考えにはなるかもしれないが。じゃがいもも人も同じなのだ。「おはようございます。どうだい。」と、周りの家庭菜園仲間が声を懸けてくる。「今年は豊作だ。」と、父がにこやかに答え返している。母は挨拶を返すとまた黙々とじゃがいもを掘り始め出した。僕も75歳になった母に負けないように挨拶を返しながらじゃがいもを掘り続けた。直ぐに太腿が張ってきて痛い。母はそんなそぶりを全く見せない。さすがだと感心した。手で掘り返した土は柔らかくふっくらとしていて踏むと気持ちがいい。茎を抜き土を掘り収穫し前進していく。首筋に強い日差しを感じた。顔を流れる汗は汚れた手で拭うことはできない。僕は吹き出る汗を流れるがままにじゃがいもを掘り続けた。朝日とは呼べない強い日差しに挫けそうになる。太腿も足首も痛くてたまらない。でも、じゃがいもの収穫は楽しい。夢中になれる。没頭できる。自分の存在を忘れて手足を動かし続けることができるのは幸せだ。目が見えなくなってからは、もう何もかもできなくなってしまったと、全てを諦めてきたが、やっとその一部でも、できることがあるとは幸せなことなのではないかと、それを自分のこととして受け入れられるようになってきた。もちろん、じゃがいもの収穫ができるのはここまで母と父で育てて来たからであって、僕にはそれを行うことはできそうもない。畑を耕すとか種芋を買いに行くとか生育状況を見に行くとか草を取るとか。だから僕一人で、じゃがいもを作ることはできない。しかし、収穫を手伝うと言う一部の経験ができる少なくとも手伝えることがあるだけで、やせ我慢にも、幸せではないかと想えるようになった。何もしないよりは増しだとは、目の見えない僕にとって英知の一つになった。収穫作業を終えた僕は先に家に送ってもらい、母と父はじゃがいもの茎などを片付けてしまうと言う。その間に僕は収穫したてのじゃがいもで味噌汁を作ることにした。じゃがいもは皮の上からたわしで丁寧に汚れを落とした。それを皮を残したままやや薄切りにした。湯で時間を短縮するためにだ。先に収穫していた玉ねぎも加える。じゃがいもに火が通ったことを確認し味噌を入れて間もなく火を止めた。炊飯器がご飯が炊き上がったことを知らせる音を発した。母も父も無事に帰ってきた。年齢的に言って、いつでも無事に帰ってきたとの思いを覚えるようになった。「味噌汁を作ったんだ。」と母。「お疲れ様。」と僕。皆で朝食を食べよう。

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