私の罪のために
テモテの手紙は、パウロから弟子のテモテに宛てて書かれたもの。
牧会書簡とも呼ばれる。
パウロのテモテへの手紙は、とても熱い内容。
彼は若くしてエペソの牧会にあたっていた。
年が若いからといって、だれにも軽く見られないようにしなさい。かえって、ことばにも、態度にも、愛にも、信仰にも、純潔にも信者の模範になりなさい。
(Iテモテ4:12)
喜びを共有できる人は、苦難をも共有することができる。
私達が心を燃やされるのは、神を愛していることがわかった時。
偽りのない信仰は、打算のない信仰。
私達は子供に何を遺すか、考える。
テモテは祖母と母から、信仰を受け継いだ。
私は、私を強くしてくださる私たちの主キリスト・イエスに感謝をささげています。なぜなら、キリストは、私をこの務めに任命して、私を忠実な者と認めてくださったからです。
(Iテモテ1:12)
パウロは自分の人生を振り返り、とても値するものではないとわかっていた。クリスチャンを迫害するものであった。
そんなものを、人として神が召してくださった。
テモテもそのことを知っていた。
しかし、その触れたくない過去に、再度ふれた。
暴力を振るう者。そのものを、キリストの恵みを伝えるものとして、用いてくださった。
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
(Iテモテ1:15)
今も自分が罪人であることを、語るパウロ。
自分の晒したくない過去を晒す。
神の前に自分がどんな人間であったかを知る。
こんな自分をも救ってくださった。
人類のため、人々のため、キリストは死んでくださった。
しかし、自分のためであったということを、どれだけ考えているだろうか。
自分がイエス・キリストを十字架につけた。
私の罪のために。
パウロはこの告白後、なんと言っただろうか。
しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
(Iテモテ1:16)
あわれみの見本。
あのパウロが救われた。だから、あなたも救われる。
この言葉は、一度きりではない。コリントでも同じ言葉を述べている。
私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。
(Iコリント15:9-10)