キリストにとどまった者の人生
ナチスがオーストリアを併合した、その頃のある農村の物語。
フランツ・イェーガーシュテッター。
彼はオーストリアの農村に生まれ、ナチスドイツから徴兵を受けるも良心的兵役拒否の末、処刑された。
彼の行動は農村で疎まれ、妻と子供はひどい仕打ちを受けた。
2007年に、彼はカトリックの殉教者に選出された。
そのような彼の映画『名もなき生涯』
もしあなたを支持する人が一人もいない状況に立たされたら、どうするだろうか。
そのような状況に置かれた時、信仰を持ち続けるためにはどうしたら良いのだろうか。
イェーガーは何度も十字架を獄中で見つけたことだろう。
イエスも同じように迫害を受けながら、召命から逃れることをしなかった。
まるで屠り場に連れて行かれる子羊のように。
私達はこのような映画を見る時、これが自分に起こらなくてよかったと感じる。
しかし、私は、迫害に立ち向かえるだろうか。
なぜ神は善良な市民を迫害にあわせるのだろうか。愛するものを見捨ててしまうように見えるのはなぜだろうか。
神は彼を見捨てることはなかった。天の家につれて帰った。この世界は彼のような人にとって、価値のある場所ではない。だから天に帰るように言われた。
私達は時に、この世が最終地点のように考えてしまう。しかしそうではない。病気も痛みも死もない場所。すべての涙が洗い流される場所。
すべてを捨て去ってでも行くべき価値のある場所。
あなたが自分の命を捧げたいと思わないものには、何の価値もない。
どのようにイエスに検診した人生を送ればよいのだろうか。
それは、キリストにとどまること。
自分の人生を主に従うことに尽くすこと。
イエスが本物であるということを革新する必要がある。
それは、彼を知ることから始める。
誰かがあなたにいったことでも、彼らが経験したことでもない。
あなた自身がイエスとの体験を持たなければならない。
私が神は本物であるということを知っているのは、経験した奇跡のおかげである。
私はそれを奇跡というが、それはそれが偶然ではないからである。
神は何度も私を助けてくださり、それは奇跡であるという他、説明がつかない。
神はあなたにご自分を表したいと思っている。
あなたの心の霊的な目を開いてください。
あなたの人生において、一日を通して、聖霊の導きに従う。
あなたは聖霊に敏感になることを学ぶ必要がある。
そのために、悪を憎み、悪から逃げなくてはならない。
誘惑に負けて神から遠ざからないようにする。
罪は私達を神から切り離そうとする。
神から切り離されると、私達は方向性を失い、御霊に導かれることができなくなる。
私達は、神への恐れを保つ必要がある。
神を怖がるのではなく、神から離れている結果を恐れる。
主を恐れることは、知恵のはじめ。
あなたは暗闇の王国を離れ、光の国民になったことを知るべきである。
私達が覚えておくべきこと。
哀れみを与えたいと願う神がいること。
とどまること。
旧約聖書では、とどまるという言葉が何度か使われている。
しかし最も使われるのは、ヤシャブということばであり、住む、とどまる、結婚する、という意味を持つ。
新約聖書ではギリシャ語でメノといい、同じ意味を持つ。
とどまる、同じ場所にいる、関係を持つ。
これこそが、フランツ・イェーガーシュテッターが牢獄の中で戦ったことである。
キリストとの関係を維持すること。
彼にとってそれはキリストを得るためにすべてを捨てることを意味していた。
パウロがピリピの手紙に書いていた事と同じである。
この映画はどんな犠牲を払ってでもキリストにとどまったすべての人を称えるものである。
キリストにとどまろう。