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主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

詩篇23を歌ったダビデの人生は、
困難の連続であった。

それと同時に、
神を見上げ続ける人生でもあった。

緑を見つけることも困難な荒れ地において、
羊飼いとして働いていたダビデ。

主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

サムエルが油を注ぐため、父エッサイのところにやってきた時のこと。
兄弟は王ではない、この子ではないと告げられていた。

ダビデは最後の最後に父から思い出されるような存在であった。

またサウル王からは命を狙われていた。

国に戻って王になるが、不倫という大きな失敗を犯し、
優秀な部下を間接的に殺してしまう。

その後、息子アブシャロムから命を狙われる。

逃げていく途中に形勢を立て直す。
部下たちに、「戦いに勝ったとしても、息子を助けてほしい」と頼む。

結果的にアブシャロムは殺され、
悲しむ結果となる。

王になってからも様々な試練に立ち向かったダビデ。

聖書を見ていくとき、人間は羊に例えられる。

いくつか羊の特徴をあげてみる。

弱くて臆病。

一匹の羊を捕まえるより、多くの羊を捕まえるほうが楽であるほどに、
一匹になるとパニックになってしまう。

迷いやすい。

毎日連れられていく場所であっても、迷ってしまう。

目が悪い。

牧草が近くにあっても、見つけることができない。

他の動物であれば半分ほど食べて、根っこを食べることはない。
枯れてしまうから。

しかし羊は、根っこまで食べ尽くしてしまう。
促されなければ、土地をだめにしてしまう。

とても頑固。

従順だが、時として自分勝手な方向に進んでしまう。

危険が目の前にあっても、
一度決めると進み続け、怪我をしてしまう。

ダビデは自分の性格を見ていくとき、
自分は羊にそっくりである、と考えていたのだろう。

私達も同じ。
自分の思う方向に進み続けてしまう。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

羊にそっくりで頑固な私達を憩わせてくださる神。

「伏させ」とは、ゆっくり横たわらせること。

神についていくとき、荒野のような状況であっても、
安息を与えられる。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。(マタイ11:28)

神からの安息を受けるとき、私達は前向きに、健全に生きることができる。

ダビデも神に頼るとき、不思議な平安を経験してきたのだろう。

主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

これは、悔い改めを意味している。

主のところに戻っていくとき、
新たな力を得て、元気を取り戻すことを指している。

疲れを得て倒れてしまうようなとき。
悔い改めて行くとき、新たな力を得ることができる。

義の道に導かれる。
これは、神とともに歩む道であり、希望と命に満ち溢れる道。

導き手がいかに優秀であるか、が問われる。

命を捨ててくださる方。
私達のことを命がけで愛してくださる方。

その方が私達を導いている。

導き手がいるということは、
導かれる側の態度も重要。

導かれる側の私達が素直に従っていくことが重要。

神は私達を愛し、命を捨て、良いことを与え、
必要な御言葉を語ってくださる。

私達はその御言葉を理解し、
素直な心で、受け入れることが大切である。

導いてくださることを知ること。

私達は聖書の好きなところだけを受け入れるのではなく、
全体から理解をしていくことが大事である。

聖書の世界と私達の世界はかけ離れているように
思うことがある。

すべての人を平等に愛することは大切だが、
神が本当に望むこと、悲しむこと、それはなにか。

人間が納得する制度、神が納得する制度、違いはなにか。

神の戒めは、時として現代にそぐわない、と思うかもしれない。

真理は、神が私達とともに歩むために書かれている。
それを注意深く学び、生きることが大切である。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。

神を信じていても、試練はある。
時として死の影を歩くようなことが、私達にはある。

神から愛されている。
でもなんでこんなことが。

それを通されていても、
神がともにいる。

神がともにいるので、
絶望を通される思いをしても、神に期待することができる。

それをダビデは語っている。

とはいえ、現実には多くの苦しみがある。
人間関係の破綻、学業や仕事における失敗、家族を失うこと。

その中においても主をほめ称えることができるだろうか。

神に立ち返る。
主が私達とともにいるから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

むちとは、棍棒、王笏という意味。
羊飼いのもつ杖。

それは羊を戒めて殴るものではなく、
羊の首に引っ掛け、連れ戻すために持っている道具。

神が主権を持って、守り、導いてくださる。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。

敵に囲まれていたとしても、祝福を与え、満たしてくださる。

どんな状況にあっても、
神は私達のさかずきを溢れさせてくださる。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。

私達は幸せになるために、一生懸命努力をしている。
むしろ恵みを追いかけている。

しかしここでは、いつくしみと恵みが追ってくると書かれている。

それは私達が主を追い求めることで、
与えられる状況。

神への期待を大きくして、歩んでいきたい。

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