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神の愛と恵みの中で生きる
心と思いを一つにする
使徒の働き4章32節に、こう記されています。
さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにしていた。
この「心と思いを一つにする」という表現は、聖書の中で非常に重要な概念です。実は、新改訳2017では多くの箇所で「心と命」と訳されています。これは、私たちの全存在をかけて神様を愛し、また隣人を愛するという意味合いを持っています。
例えば、イスラエルの民が日々唱えていたシェマーの祈りを思い出してください。申命記6章4-5節にはこう書かれています。
聞け、イスラエル。主は私たちの神。主はただ一つである。あなたは心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
この「心を尽くし、命を尽くす」というフレーズは、私たちの存在のすべてを神様に捧げることを意味しています。そして、それは単に個人的な信仰の問題だけではなく、共同体としての在り方にも深く関わっているのです。
神の愛に応答する
私たちは往々にして、自分の心も、命も、力も、すべて自分のものだと思いがちです。しかし、イエス・キリストの十字架と復活は、私たちにある重要な真理を思い出させてくれます。それは、私たちのすべては神様から託されたものだということです。
イエス・キリストの十字架と復活は、神様の愛を最も雄弁に物語っています。この驚くべき愛を知れば知るほど、私たちは神様を愛することができるようになり、また隣人を自分自身のように愛することができるようになっていきます。これこそが、聖書が私たちに約束していることなのです。
皆さん、考えてみてください。かつては自分のために一生懸命生きていたかもしれません。しかし、私たちは誰よりも、自分自身よりも、私たちのために心を尽くし、命を尽くし、力を尽くして、すべてを捧げてくださったイエス・キリストに出会ったのです。この事実を、今一度心に刻みたいと思います。
イエス様は私たちのすべてとなってくださいました。すべてをかけて私たちを愛してくださった方がいる。このことを喜び、感謝したいと思います。自分のためだけに生きる生き方ではなく、神様を愛し、人を愛する。そういう生き方の魅力を、もう一度確認したいと思います。
共に分かち合う生活
使徒の働き4章32節の後半には、こう続きます。
彼らは誰一人、自分の持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有していた。
最初は、私たちも「私の時間」「私の命」「私の財産」「私の人間関係」と、すべてを自分のものだと思っていたかもしれません。しかし、本当のところ、それらはすべて神様からいただいたものなのです。
心を尽くし、思いを尽くして神様を愛するとき、私たちは気づきます。神様が先に私たちを愛してくださったのだと。そして、その愛に応答して、私たちも神様のために、また人々のために愛していく。そうすると、自然と「これは自分のものだ」と言わない生き方につながっていくのです。
これは大きな信仰のチャレンジかもしれません。特に、私たちが自分で稼いだお金や、自分の努力で得たものについては、「これは自分のものだ」と主張したくなるものです。しかし、その根源を考えたとき、すべては神様から頂いているものだということに気づくのです。
日々の生活の中で、このことを思い出しながら過ごすことができたらどんなに素晴らしいでしょうか。神様から与えられていないものは一つもありません。すべては神様に託されているものであり、「これをあなたに託すから、賢く用いなさい」と言われているのです。
大きな力と恵み
使徒の働き4章33節には、こう記されています。
使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強く証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。
ここで強調されているのは「大きな力」という言葉です。この力は、聖霊によって与えられるものです。使徒の働きを通して、私たちは繰り返しこの真理を見ることができます。聖霊に満たされることで、弟子たちは大胆に語ることができたのです。
そして、注目すべきは「大きな恵みが彼ら全員の上にあった」という部分です。一人一人の上に、全員の上に、神の大きな恵みがあったのです。イエス様はそういうお方です。一人一人のことを見ておられ、分け隔てなく、私たち一人一人に大きな恵みを与えると約束してくださっているのです。
イエス・キリストの弟子として生きるとき、私たちは自分の力で頑張るのではありません。聖霊が力を与えてくれるのです。神様から恵みをいただいて、そして出ていくことができるのです。人に仕えることができ、神様を愛することができる。それは神様から与えられた恵みなのです。
イエス様の復活は、私たちの人生を新たにします。どれほど傷ついていても、どれほど痛みを覚えていても、そこから回復させてくれるのです。新しい創造が私たちのうちに始まっていく。それが復活の力なのです。
具体的な愛の実践
使徒の働き4章34-35節には、こう記されています。
彼らの中には、一人も貧しい人がいなかった。それは、地所や家を持っている人々がみな、それを売り、売った物の代金を持って来て、使徒たちの足もとに置き、その金を必要に応じてそれぞれの人に分け与えたからである。
この箇所は、申命記15章4節を思い起こさせます。
ただし、あなたの間には、貧しい者が決していないようにしなければならない。あなたの神、主が相続地として与えてあなたに得させようとしている地で、主が必ずあなたを祝福してくださるからである。
神様が約束された祝福が、イエス・キリストの十字架の恵みによって実現し始めたのです。しかし、注目すべきは、その祝福が弟子たちの手を通して実現されていったということです。神様は私たちを通して、この世界に祝福をもたらそうとしておられるのです。
これは決して、強制的に全財産を教会に捧げよということではありません。そうではなく、神様から託されているものを、自分のものだと言って独り占めせず、神様に喜ばれるように、祈りながら用いていくということなのです。
この世界は「私のもの」という価値観の中で生きています。しかし、私たちは違います。「これは神様から託されているものだ」と認識し、神様に喜ばれ、人に喜ばれるように用いていく。そのような生き方が、この世界にあってイエス・キリストを指し示す証人としての生き方なのです。
おわりに
私たちの手は決して完璧ではありません。罪で汚れていることもあるでしょう。しかし、イエス様が十字架にかかってくださり、その血潮が私たちの手を洗い清めてくださるのです。私たちがイエス様の前に手を差し出すとき、その手は清められるのです。
私たちは完璧な人間になることはできません。いつも欠点や弱さを抱えています。しかし、そんな私たちを神様は受け入れてくださるのです。時には恥ずかしい思いをすることもあるかもしれません。でも、イエス様はその手や足を、神様の働きができるように整えてくださるのです。
この事実を心に刻みながら、共にこの世界に神様の恵みを表す者として生きていきましょう。神様の愛に応答し、その愛を人々に分かち合う者となりましょう。