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主に絶望を打ち明ける

年末をどのようにすごしていくだろうか?

詩篇46-47はつながっている。

もともとは一つの長い歌であったものが、
神殿で短く歌えるように加工された。

コラの子たちの歌。
聖歌隊のメンバーとして特別に任命された者たちのこと。

聖歌隊が組織されて歌われるようになったのは、
ダビデ以降だと言われている。

神のイスラエルとして経験したこと。
ダビデが歌ってきた詩篇の背景とは、どんなものだったのだろうか。

主はいと高き神、畏るべき方
全地に君臨される偉大な王。
諸国の民を我らに従わせると宣言し
国々を我らの足もとに置かれた。

詩篇47:3-4

ここにヒントが隠されている。
ダビデは何度も試練のどん底に突き落とされた。

そこには不安、不平があった。
しかしいつもどん底から引き出され、神のみ前に置かれる。
足元に従わされる。

イスラエルも、何度も国家としての存亡の危機にさらされた。
しかし大国は、小国イスラエルの足元に従わされた。

神が働いたとしか言えないような数々のこと。

どんなプロセスをへたとしても、一つの共通な体験がある。
絶望という体験。

絶望は救いに役立つ。
真の絶望は、聖霊の賜物であり、キリストのみわざ。

このキリストを受け入れることができるだろうか。

できることなら希望で満ち溢れていたい。
キリスト者にとっても、信仰が与えられていないものにとっても。

真の絶望に追い込まれたものは、
真の叫びを発することができる。

本当に追い詰められたそのとき、神に祈る。

それはだれても一回は経験したことのあること。
真の叫びとなるためには、絶望に追い込まれなければ出てこない。

「私は絶望に追い込まれています。どうか助けてください。」

完全に希望を絶たれたものこそ、
真の希望を知ることになる。

揺るがない信頼と、心からの賛美が生まれる。

思い巡らして、生まれたのが150篇にも渡る詩篇。
思いをまっすぐに神にぶつける。

ただ涙を流しているだけだとしても。

背負っているものを礼拝に持ち込んで、
隣在している主に、明け渡す。

神の取り計らいによって、厳しい環境からの解放、
解決の道が与えられることも、あり得る。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

マタイ11:28-30

一番の絶望とは、神との関係が断ち切られること。
その絶望を乗り越えた先に、復活がある。

全世界に希望を示してくださった、主イエス。
十字架という絶望を乗り越えて。

だから、希望を与えることができる。

その救い主を降誕節に、そして
毎週の礼拝にお迎えしている。


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