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心から行う

私たちはキリストによる喜びを知って生きるものたち。
この喜びは、神からの一方的なめぐみ。

神が日々私たちを助けてくださることも経験する。
聖霊は適切な言葉を教え、導き、祈りに応えてくれる。

キリストの十字架の愛によって救われた私たちは、
地上にあるものではなく、上にあるものを覚えていくように教えられている。

キリストの愛を着させていただいたものとしての新しい生き方

キリストの愛を着させていただいたものとしての新しい生き方は、
まず家庭から始まる。

家庭の最小単位は、夫と妻から始まる。

コロサイの手紙でも、
妻たちよ、夫たちよ、子どもたちよ、父たちよ、と教えている。

今日の箇所では「奴隷たちよ」「主人たちよ」と続いていく。

ここからわかるのは、家庭の中に奴隷がいて、
彼らもまた、教会の交わりに加えられていること。

奴隷たちは地上の主人に従いなさい、と教えられている。
聖書の時代においても、奴隷は人間ではなく、人の所有物として扱われていた。

人としての権利、自由、名誉は与えられていなかった。
売り買いをされているような存在。

しかし、今日の私たちが考えるのとは、少し違うようだ。
奴隷という言葉が聖書では、頻繁にでてくる。
アブラハムも、サラも奴隷を持っていた。

一番驚くべきことは、イスラエルの民がエジプトにおいて奴隷として苦しんでいたこと。
モーセが建てられ、脱出の道を開いた。

奴隷が家庭から出て行きたくないときは、
片方の耳を桐で刺す。

新約聖書も奴隷がいたことを伝えている。
Iコリント7章。

それぞれ自分が召されたときの状態にとどまっていなさい。
あなたが奴隷の状態で召されたのなら、そのことを気にしてはいけません。しかし、もし自由の身になれるなら、その機会を用いたらよいでしょう。
主にあって召された奴隷は、
主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。人間の奴隷となってはいけません。
兄弟たち、それぞれ召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。

大切なことは、神の御前にいる、ということ。

教会はキリストの福音を教える。
新しくされ、キリストにある愛と生命を教える。

それぞれが遣わされた先で、それぞれが判断し、それぞれが戦う。

聖書はピレモンという主人にもとに、オネシモという奴隷がいたことを伝える。
オネシモは奴隷状態から逃れ、
ローマの獄中でパウロと出会い、救いに導かれていく。

パウロはオネシモを自分の手元においておきたかったが、
ピレモンの許可を得ていなかったので、オネシモに、主人のもとに帰るよう伝える。

オネシモがピレモンのもとに帰っていく時、
ピレモンは、よくも逃げ出したな、と言っても不思議はなかった。

しかしピレモンはオネシモを受け入れる。

私たちと神の関係についても、このエピソードは考えさせられる。

イエスと弟子が船で水を被り、沈みそうになった時があった。
イエスは寝ていた。

弟子たちはイエスを起こし、助けを求めた。
イエスは風と波を叱りつけ、穏やかになった。

風や波にまで権威を持って伝えることができるのだ、
ということを聖書は伝えている。

神なる方の権威に従うように、
奴隷もおかれた場所で主人に従う。

主人も神が人を扱うように、
奴隷を扱うことが求められている。

人である私たちが互いを大切にしていくモチベーションは、
神の権威のもとで神を愛し、互いに愛し合うことを教えている。

私たちは互いに自らの罪の奴隷であったことを覚えながら、
したいと思う善ができず、したくない悪を行ってしまう自分を思いながら、

救われ、神の子とされたことを覚え、
相手を尊敬し、相手を受け入れていく心を養っていくことができる。

神に買い取られたものであることを自覚するなら、
神の奴隷となっていくことを、
喜びとしていく。

もはや罪に支配されるのではなく、
神に従うものなのだ、ということ。

奴隷たちよ、すべてのことについて地上の主人に従いなさい。人のご機嫌取りのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れつつ、真心から従いなさい。
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。
あなたがたは、主から報いとして御国を受け継ぐことを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです。
不正を行う者は、自分が行った不正を報いとして受け取ることになります。不公平な扱いはありません。
主人たちよ。あなたがたは、自分たちも天に主人を持つ者だと知っているのですから、奴隷に対して正義と公平を示しなさい。
(コロサイ3:22-4:1)

人を喜ばせようとする生き方

上辺だけで人を喜ばせようとする生き方がある。

親は時々子供をなだめすかすようにして、
ご機嫌取りをしながらあやすことがある。

大人同士でさえ、ご機嫌取りのために、
金やものを提供することがある。

見ているときだけ仕事をすることがある。
見せかけのパフォーマンス。

その行為はいつまでも続かない。
必ず破綻する。

そして、本当の姿が表されていく。

お金のために仕事をし、
人を満足させるために働いているように
見せかけることがある。

このような働き方が、
キリスト者の働き方でないことは、
誰にでも分かること。

仕事をするというのは、
気遣うこと。

なにか言われたらそれをやることは、
簡単にできること。

しかし言われなくても、気がついてやることにこそ、
本当の仕事はある。

どこに過不足があるのか、
それを察知する。

労力と犠牲を惜しみなくすることが、
主をおそれつつ真心から従うということ。

逆に神を恐れず不順な心で使える時、
不正に対する報いを受ける。

そこに不公平な扱いはない。

不正は必ず明らかにされる。

心から、というのは頑張るということよりも
自分の人格的な存在を持って、
主に対するように、人にするということ。

その存在こそが、心からの意味。

感謝をすることは、文句や悪口より
少なくなりがちである。

それこそが、自分の存在をもって
神の栄光を表していくこと。

何度もこころみを受け苦しみを味わう。
そのたびに悔い改めに導かれ、やり直しの機会を与えられる。

イギリスの奴隷解放を推進したウィルバーフォース。
彼に最も影響力を与えた助言者はジョン・ニュートンであった。

ジョン・ニュートンはアメージング・グレースを作曲したことで知られる。

ウィルバーフォースは奴隷貿易に反対するグループとともに、
政治の場で反対の立場を取り続けた。

救いに導かれてから50年。
彼はついに息を引き取る。

その次の月に、法律は変えられた。

死に至るまで、彼はまごころから主に仕えていた。

それは主からの報いとして、
救いを受け取ることを知っていたから。

お互いに何をするにしても、酒に対してするように、
私たちもまた心に刻み、天の御国を受け継ぐものとして、
生きていくものでありたい。


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