今日がこの地上の最後の礼拝だと、考えたことがあるだろうか。
自分の葬儀について考えたことがあるだろうか。
それは、私達がどう生きたか、どのように地上を歩んだか、式の中で証しされる。
横の関係の中で生きる生き方。
どちらかが勝っているという恥の文化ではなく。
神の前でどう生きるか、考える生き方である。
横の関係なしに生きることはできない。
神が何を評価するのかを意識して生きる時、
私達は生き方が変わってくるのではないだろうか。
強烈な証となって、その人の心に刻まれていく。
神は、一人ひとりに様々な能力を与えた。
タラントのたとえ。
自分はあの人よりも持っていない、持っている。
比較して生きることもできる。
しかし、タラントとは大きな金額である。
16年分の給料。
数億円を持って、商売をし、数億円を儲けた。
すごい能力。
2タラントだとしても、一億数千万。
しかし1タラント預かったものは、主人の金を隠した。
いつ主人が帰ってきても渡せばいい。それ以外は自分の好きに生きていれば良い。
そう考えたのだろうか。
ある聖書学者は、このタラントを「機会」と捉えるべきなのでは、と語る。
この機会をどうするべきか。それが問われている。
主人の喜びは自分だけのものではなく、しもべの喜びとなることを語った。
用いることを、なぜしなかったのか。主人はしもべに問いかけた。
私達は様々な能力を与えられている。
それを比較する必要はない。
世界のため、私とともに喜ぶために、あなたの力を用いなさい、神は語る。
神は私達に自由意志を与えた。従うことも、背くこともできる。
自ら行うことができる。
ルカの19章に、10ミナを10人に与えた話が出てくる。
10ミナは、100日分の給料。
あるものは10ミナを増やし、あるものは地に埋めた。
ここでわかること。それは同じ金額であっても、違う金額であっても。
与えられたものを、どう用いたかが評価されている。
弟子たちは漁師であった。漁師たちは魚を漁るのが能力であった。
弟子たちの中で一番優秀だったのはユダではないかと言われるほど。
取税人のマタイも計算が得意だった。
それぞれ欠けがある。
しかし一人ひとりに委ねられていたものが違った。
全員が裏切ることになる。それでも、悔い改めた弟子たち。
ひとりひとり違って良い。
だからこそ、神に与えられたものを用いているか、問われている。
賜物は人々のために用いる。誰かのために、世界のために。
神は私達に多くのものをチャレンジとして委ねてくださる。
用いるように、活用するように。それを忠実になすように。
神の召しに不忠実だった1タラントを与えられたもの。
持っているものも取り上げられた。