イエスの覚悟
私達は「何かを成し遂げ、評価される」そんな世界に生きている。
赤ちゃんの頃は「生まれてきてくれてありがとう」と言われていたのに、いつの間にか、それを言われなくなってしまう。
あなたのいいところは何だろうか。
神様は誰をも神ご自身のように作られた。
イエスは苦難の道だとわかった上で、エルサレムに向かって足を進めていった。
私達は神の愛をどう考えているだろうか。あなたは生まれたままの、そのままでいいよ、という、そんな言葉を待っているだろうか。
神の愛が私達を変えていく。その神様の愛は、私達をそのままにすることなく、神の生き方について考える、一歩踏み出す勇気を与えてくれる。
サマリヤの人たちはユダヤの人からみると、信仰を失った人々であるという見方をされていた。
そしてイエスの一行は、サマリヤ人の町に入ることが出来なかった。
憤る弟子とは対象に、イエスは彼らとは違う態度を取っていた。
衝撃的なイエスの回答。これが弟子のあるべき姿である、とイエスは語る。
家族の葬儀に参加することも、別れを告げることも、許されない。
この教えをただルールとして守ることを強調したら、まるでカルトのような内容。
しかしイエスはこの覚悟で十字架に向かっていく。
重たいと感じたとしたら、それはイエスの十字架に向かう覚悟であるということを受け止めたい。
私達は十字架にかかって死んだというイエスのストーリーを何度も聞いている。
しかし、その覚悟の大きさについて考えたことがあるだろうか。
イエスは、この私についてきなさい、と言葉をかける。
イエスへの関心から私達を逸らそうとすることはたくさんある。
従い続けることができないのが私達の姿。
それでも、従い続けていきたい。
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