妻たちよ、夫に従いなさい
妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。
夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。
子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主にあって喜ばれることだからです。
父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。コロサイ3:18-21
神を求めながら、助けと憐れみを求めながら、日々新しい人を着るものとして、生きていく。それは、キリストに似たものとされて生きるということ。
そこには性別や国籍の差別はない。
キリストに倣うものとしての生き方をする。
クリスチャンの生き方は、どれほど自分の生き方を通してキリストの愛を表すか、である。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。
救われた私たちはキリストに倣うものとして、あらゆる働き方の中で、キリストに平安がありますか、ということを問われながら生きるものとなる。
平安がなければ、今の生き方を変える必要がある。
感謝がない状態は、不満、嘆き、非難、人間関係の不安定さがある。
感謝の心を持つ人になりなさい、と教会で教えられ、社会に出ていく。
その社会の最小単位は家庭である。
家庭生活は実に神の御前には、祝福を味わうように、と教えられている。
妻たちよ、夫に従いなさい
なぜ「妻たちよ、主にあるものにふさわしく夫に従いなさい」
が最初に来るのだろうか。
妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。(エペソ5:22)
同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。(Iペテロ3:1)
聖書は妻を第一に書くことで、男女の公平を示していた。
ユダヤの社会において、妻とは奴隷身分であった。
ギリシア社会でも一人で外に出ることは禁じられ、買い物にいくこともできなかった。
それに反して夫は好きなことをして、妻を侮辱するようなことさえあった。
すべての義務を妻に追わせた時代であった。
更に聖書をさかのぼると、創世記では、
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして人を創造し、男と女に彼らを創造された。(創世記1:27)
しかしその後、アダムとエバの時代に罪が始まり、欲望を満たす社会になっていたのだった。
神の憐れみのゆえに
神は憐れみを持って、私たちの罪を赦し、救いへ導いた。
キリストが3日目によみがえり、キリストの命が私たちの命として働かれている。
聖霊の助けを祈り求めながら、キリストの後を従うことができるようになっている。
夫婦として結び合わされ一体とされたときには、夫婦として神の栄光を表すものとされた。
そのために妻は夫に従いなさい、とされているのである。
奴隷のように従うのではなく、自分の行動によって仕えていくことが、従うということである。
キリストも御父に従った。私たちはギリシア人でもユダヤ人でも、奴隷も自由もなく、男も女も教会に結び合わされ、神に従い、励まし合うのである。
そこには人種、職業の差別もない。
従わないということは、神の愛に対して反抗することである。
神にある平和
神にある平和を追い求めることで、
クリスチャンはときに死に追いやられることがある。
相手を守ることで、自らが命を落としてしまうようなケースもある。
キリストの平和が心を支配しているかどうかを大切にして生きていくことで、互いに神の形に創造されたことを思っていきたい。
夫たちよ、妻を愛しなさい
夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
(エペソ5:25-29)
妻を養い育てるのが、夫の責任である。
聖書が教えるように、実践できている人はどれほどいるだろうか。
砕かれて、悔い改めることを迫られるのである。
独裁者や暴君のように管理し、自分の欲望のために所有してはならない。
ペテロがいうように、自分より弱い器であることをわきまえて、
妻の不安を無視せず、辛く当たらないようにすべきである。
理解し、安心と希望を与え、大切にしていることを表現する必要がある。
すべて主の名前において行動しなければならない。
信仰が土台になければ、夫婦の関係はこわれやすい。
信仰が土台にあって、神を恐れながら従い合う。
主イエスによって父なる神に感謝し、主イエスの名によって行うことが前提にあって、夫婦の関係は築かれていくのである。
何をするにも、人に対してするようではなく、神に対してするようにする。
多く赦されたものは、多く愛する。
夫はいつも十字架のキリストを見上げながら、ひざまずき祈るべきである。
子どもたちよ、両親に従いなさい
子どもたちよ。主にあって両親に従いなさい。これは正しいことだからです。(エペソ6:1)
この時代の子供とは、およそ12歳くらいまでを指している。
妻が夫に従う、ということとは別で、聞くことから始まる従順である。
神の言葉を聞く。
アブラハムが神の言葉を聞いて行動したように、子どもたちも両親に従うことが求められる。
パウロは次のように語っている。
「あなたの父と母を敬え。」これは第一の戒めであり、約束を伴ったものです。すなわち、「そうしたら、あなたはしあわせになり、地上で長生きする。」という約束です。(エペソ6:2-3)
この祝福に反することとして、子供を苛立たせてはいけない、と聖書は教えている。
気落ちさせないように、臆病にさせないように。
臆病にさせると、子供の自立は達成できない。
一方で甘やかすことで苛立たせてしまうこともある。
妻や子供が従うことのできない状況もある。
信仰から踏み外す生き方のときは従うことができない。
しかし子供が両親に従わないとき、
神を敬うことをしなくなってしまう。
キリストの愛のゆえに家庭を築くとき、
その行動は周りの人にも影響を与える。
この一週間もキリストによる愛で互いを尊んでいきたい。