喜びの未来
詩篇97篇は3つの段落にわかれている。
1-7:諸国民の未来
8-9:神の民の未来
10-12:正しいものの未来
パレスチナ全体では、沿岸の島というのをエーゲ海付近のものまで沿岸であると捉えていた。
バビロン捕囚から帰還した後の、諸国への預言として捉えられる。神からの預言は火を象徴としている。イスラエルを攻撃するもの、敵対するものを神が撃退する際に用いられたものである。時には火として、時には稲妻として。人々は火を畏怖の念で見ていた。そのため人々は山々をロウソクのロウのように歪めてしまう方として記されている。
すぐにヤハウェを思い起こすことはできなくても、イスラエルとの関わりの中で、神との関係を確認することができた。神の臨在の印であることを悟るためには、どうしてもイスラエルの存在が必要であった。これは現在の日本にも当てはまる。大自然の前での無力さ。東日本大震災を始めとする自然災害。その時、神を知らない人たちはよくわからないがままに、ひたすら恐れを持って過ごしているが、キリスト者は、その背後にいる創造者をしっている。そこに主の栄光が示されていること。それを知らせていくことが、私たちの責任。
しかし、天罰、神の罰など軽薄な言葉を持って伝えてはいけない。創造者である主がすべての根底であることから、丁寧に伝えていくべきである。栄光が示されていくことにより、偶像の虚しさを知っていく。
8-9では神の民の未来について描かれている。
神のわざが示されるとき、キリスト者は恐怖ではなく、喜びを得る。
にも同じ訳語が登場する。
11節に書かれている「喜びを種蒔いてくださる」はどういう意味だろうか。このヘブル語の子音に母音を一つ変えると、ザルア(蒔かれている)からザラハ(昇っている、輝いている)となる。旧約の時代、口伝で聖書は伝えられてきたので、子音が間違ってしまうことはどうしてもある。この2つを採用すると、次のようになる。「光は正しい者のために輝いており、喜びは直ぐな者のために蒔かれている。」
私たち信仰者が日々の実存的な体験として詩篇を読むことができるのではないだろうか。
喜びも主によって心のなかに芽生えていくような思いで満たされていく。現実の信仰生活の中で経験されていることだろう。それがみことばによる実存的な体験。
以上のように、聖書のみことばで学んだことを整理しつつ、現代の私たちの生活に適用してみることが大切である。現代日本の政治のあり方、私たちの生活はどうだろうか。一人ひとりの幸福よりも経済を優先していないだろうか。
正義のリーダーを立ててくださらないのだろうか、と旧約の時代ダビデは嘆きの詩篇を歌っていた。主よこの国を救ってください、と私達も真剣に祈り求めることが必要である。義とさばきが主の基い。