神に近づく
旧約聖書(律法)という視点から新約聖書を読まなければ、新約聖書を理解することは出来ない。
劇を見るのであれば、観客席から見なければ劇が伝えたいことはわからない。舞台袖からではなく。
奴隷としての価値
イスラエルの民は海を渡る前、エジプトの地にいて奴隷であった。
労働力、商品としての存在であった。
奴隷の価値とは、主人の役に立つ力を持っているかであった。病気になってしまえばゴミ同然の扱いになってしまう。
奴隷たちにとって自分の価値の見出し方は、奴隷同士の比較。どちらのほうがより力が強いか。
現代を生きる私達も基準が変わっただけで、資金力や容姿を比較にする。
しかし神は、私達のもつ力と関係なしに愛してくださった。
神に近づく
捧げものをする:コルバーン(ヘブル語)
語源は「近づくことをする」
いくら捧げたかではなく、どれほど近づいたか。
それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。
多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。
「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。(マルコ12:41-44)
当時の日当を1万円と考えると、レプタ銅貨二枚は150円。
捧げるために
しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司と
して来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた
物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、
やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ
一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたので
す。(ヘブル9:11-12)
キリストが来てからも、捧げものも大祭司も存在している。
捧げものはイエス・キリストの血であり、大祭司もイエス・キリスト。
私達が真実に主に近づこうとするなら、大祭司であるイエスにとりなしていただく必要がある。
その時、わたしたちが悪魔の奴隷時代に培ってきた悪いものから開放され、神から与えられた身分を心から楽しみ、神を賛美することができる。